天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

天地(あめつち)は動くか (3/7)

 さて短歌が発揮できる力は、短歌表現の多様性によって推し量ることができる。それは、次のような要素の組合せで顕現する。
★言葉の選択(文語、口語、記号・数式・化学式を含む)
★言葉の組合せ(一物仕立、二物衝撃、モンタージュ
★表記(仮名、漢字、外国語、句読点、空白、一行書き、多行書き、文字の図形状配置)
★韻律(正調、破調、息継ぎ)
詠む対象と表現したい内容によって様式を決めることになる。

震災短歌の特徴
 近代短歌では、花鳥風月を人間を含めた自然全体に拡張し、その美のみならず破壊・醜悪といった現実をも臆することなく詠うようになった。その最初の試練が関東大震災への対応であった。そして短歌の情景描写力をみごとに実証してみせたのが、窪田空穂の歌集『鏡葉』に代表される震災詠である。空穂は水道橋、お茶の水橋、神田錦町、京橋、一石橋、丸の内、被服廠址などを歩いて写実に徹して情景を詠んだ。
  一石橋((いちこくばし)石ばしの上ゆ見おろせば照る日あかるく川に

  人くさる
 関東大震災の折に詠まれた短歌は、時代を反映して旧仮名・文語調であり、作者の多くは名の知られた歌人たちであった。短歌による情景描写は、以後の大震災にも共通する。
 戦後に起きた阪神淡路大震災でも家屋焼失と倒壊が主なものであった。この折の短歌にとって一つの特徴は、多くの無名の人たちが詠んだ点であろう。新仮名・口語短歌も多くなった。ボランティア活動と動物たちへの思いやりの歌が目新しい。特にボランティアという言葉が実質的に社会に定着したのは、この震災が契機になったと思われる。朝日新聞社発行『阪神大震災を詠む』から、例をあげておく。
  寝袋に大工道具をひそませてボランテアの君バイクにて発つ
                      飯田市・熊谷茂雄
  飼ひ主を亡くせし犬とみなしごの少女が地震の跡に座れり
                     横浜市・秋田興一郎
  飼犬を安楽死さす被災地の事実を知らず居りたかりしを
                      尾西市・薗部洋子

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朝日新聞社発行

 

天地(あめつち)は動くか (2/7)

短歌の力
 関東大震災の折、情況を詠むのに適した詩形について考えた歌人がいた。釈迢空北原白秋である。釈迢空は、短歌様式の詠嘆をはがゆく感じて、短歌に近い別の四行の小曲に表そうとした。歌集『海やまのあひだ』(大正一四年五月、改造社刊)のあとがきに、次のように記している。
「私は、地震直後のすさみきつた心で、町々を歩きながら、滑らかな拍子に寄せられない感動を表すものとしての―出来るだけ、歌に近い形を持ちながら、―歌の行きつくべきものを考へた。さうして、四句詩形を以てする發想に考へついた。・・・」
しかし彼は、思想の休止と調子の休止との在り方について迷い、結局、震災の情況を彼の言う新形式の歌に詠まなかった。多行書きも歌集『春のことぶれ』だけにとどまり、句読点と一字空けを多用する一行書きに落ち着いた。
 北原白秋は、感動の種類によって最適な詩形を使うべきという考え方を持っていた。小田原の「木莬(ずく)の家」にいた時地震に遭い、その体験を短歌と俳句で表現した。短歌で被災時の動揺を、俳句で震災後の鎮静化を詠む。両者合せて鑑賞すると白秋の意図が判る。俳句は俳人・臼田亜浪が驚いたほどの出来ばえであり、白秋調の芽生が感じられるという。しかし白秋はこの後、俳句から去った。
 彼らとは反対に関東大震災の在り様を徹底的に短歌で表現した歌人たちがいた。窪田空穂であり、アララギの島木赤彦や高田浪吉などである。明治以前の和歌の時代にも大地震津波の災害はあったが、和歌に詠まれることはほとんどなかったので、彼らの作品は短歌史上の一大成果となった。
 今回の東日本大震災に際しては、俳人長谷川櫂が、専門外の短歌で詠んだ。俳句より十四音多い分、記録や描写ができるというのが理由であった。『震災歌集』は、二0一一年三月一一日午後に起きた東日本大震災以降の十二日間の記録として、四月二五日に中央公論新社から発行された。この間髪を容れない公開が世間の注目を引くところとなった。
 ちなみに福島在住の詩人・和合亮一は、被災下にあって、パソコンからネットにツイッター(一回分は一四0字以内)で自分の思いを「詩の礫」として連日リアルタイムで発信し続けた。そして短期間に数千人のフォロワーを獲得した。

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関東大震災の記録 (大日本雄辯會講談社編纂)

天地(あめつち)は動くか (1/7)

[注]機会詩〈短歌〉ノート(2017-10-09から6回) で、震災の短歌に少し触れたが、ここではそこに焦点を当てて幅を広げてみていく。震災を詠んだ短歌は、鬼神や天地をも感動させることができるか(古今集和歌集の仮名序によればできるはず)、それが表題の趣旨である。

はじめに
 2011年7月12日の国会中継衆議院東日本大震災復興特別委員会質疑」で谷公一自民党議員が、次の短歌を引用して当時の管首相に迫った場面を、たまたまつけていたテレビで見た。
  かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭う日本の不幸
この過激な短歌が、温和な俳人長谷川櫂の作と判って仰天した。彼は古今和歌集の仮名序に書かれた、やまと歌が天地をも動かす力を持つという言葉を信じて、東日本大震災とその後の対応に対する止むにやまれぬ気持を短歌に詠んだ。その『震災歌集』の趣旨を手掛りに、本論では短歌が発揮できる力を検討し、東日本大震災時点の短歌の特徴を過去の震災短歌と比較しながら見て行くことにしたい。

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青磁社より

食う・飲むを詠む(6/6)

  せき水に又衣手は濡れにけりふたむすびだにのまぬ心に
                        増 基
  あさいでにきびの豊(とよ)御酒(みき)のみかへしいはじとすれど

  しひてかなしき              源 俊頼


  秋の雨寂しき今日を友もなし海苔を火にあてて独りこそ飲め
                       大隈言道
  夜の炉べに蜜をのみつつ眼つむれば幾百幾千の蜂と花々
                      結城哀草果
  生ける魚生きしがままに呑みたれば白鳥のうつくしき咽喉うごきたり
                      真鍋美恵子
  煮えたぎつ湯玉のごときものを嚥(の)みおもむろにわれ生甲斐つかむ
                       坪野哲久
  砂時計買い来つ砂の落ちざまのいさぎよき友飲み明かさんよ
                      佐佐木幸綱

 増基(ぞうき)(増基法師)は、平安時代の僧・歌人中古三十六歌仙の一人)。熊野や遠江国を旅して、風物を無常観とともに描いた詞書は後世の紀行文の先駆をなす、とされる。
 源俊頼の歌: 「吉備の豊御酒」は、黍の穂果で醸した和酒。一夜が明けて恋人のもとを去ろうとした時の情景だろうか。去り際にもう一度酒をあおって、わかれの言葉を言わないようにしようとしたことが、とても悲しい。
 真鍋美恵子の歌: 上句は、一瞬作者の動作かと驚くが、実は白鳥が生きた魚を丸のみしたのだ。
 坪野哲久の歌: これも上句がおどろおどろしい。具体的に何を嚥下したのか不明。多分、ある決意のようなものの比喩であろう。
 佐佐木幸綱の歌: 「砂の落ちざまの」は、「いさぎよき」を導くための序詞であろう。
「今日は砂時計を買って来た。さあ友よ、飲み明かそうか。」砂時計と飲み明かすことを結びつけるための工夫であったか。

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白鳥

食う・飲むを詠む(5/6)

  出でゆくと飯いそぎ食ふ弟を見れば立ち入りてもの言はざりき
                       五味保義
  雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ
                       塚本邦雄
  仕残しの仕事を置きて旅に来つ落ち鮎の身を身に沁みて食う
                      佐佐木幸綱
  君は食う豚足ざりがにゲバラの死金平糖の紅のとげとげ
                      佐佐木幸綱
  ねむるときもの食むときもひとりにて清き娶りよ思ひゐしよりは
                       小野茂
  捕へたる蜘蛛をかまきりは食はんとす優位なるものの身の美しく
                      真鍋美恵子

 佐佐木幸綱の歌: 二首目において「ゲバラの死」が食べ物の中に入っているのは、異様である。ゲバラが死んだのは、1967年10月9日であった。この歌は、食事中の話題として、ゲバラの死を語った、という解釈になろう。以下に簡単にゲバラについて紹介しておく。
エルネスト・ゲバラ(愛称:チェ・ゲバラ)は、周知のようにアルゼンチン生まれの政治家、革命家、キューバのゲリラ指導者である。最後は、ゲリラ戦中に政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられ、小学校において銃殺刑に処せられた。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた。その場所は30年間も不明であったが、遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。
 小野茂樹の歌: これも難解である。上句は明解。下句が上句とどう結び着くのか。結婚したけれど、ひとりで暮らしている、ということか。小野茂樹の相聞歌は、瑞々しさにあふれたやわらかさで高く評価されたが、恋愛、失恋、結婚、離婚、再婚など私生活の面でスキャンダラスであった。1970年に交通事故のため33歳で死去した。

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金平糖


 

食う・飲むを詠む(4/6)

  食ひなづむ玉蜀黍(たうもろこし)粉(こ)やうやくに減りて今年の秋も深めり
                      柴生田 稔
  み枕べ去らむとするを押しとどめ飯食ふさまを見よといはしぬ
                       岩津資雄
  磯山の香にたつ松露を食はむとす北京放還のとも東京飢餓のわれ
                       坪野哲久
  秋分のおはぎを食へば悲しかりけりわが佛なべて満州の土
                       山本友一
  もの吐ける猫にむかひて蜥蜴など食ふから馬鹿と言ふ声聞ゆ
                       山本友一
  何ならず何かうまきもの食はしめと寄りそふものを率て歩むなり
                       山本友一
  ささやかに食ひつつ交はす三言(みこと)またふた言つひに二人となりぬ
                       山本友一

 岩津資雄は、昭和時代~成時代の歌人、日本文学者で早稲田大学教授だった。早稲田大学在学中から窪田空穂に師事した。
 坪野哲久の歌: 松露とは、キノコの一種。春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。その形態は、歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといついている。
坪野哲久は、プロレタリア歌人として出発し、大胆な口語自由律短歌を発表するようになった。戦時中は、治安維持法違反で検挙されたこともあった。妻は歌人の山田あき。
 山本友一は、福島県出身。松村英一に師事して、香川進らと「地中海」を創刊。満州での生活や引き揚げ体験をよんだ重厚な歌風に特色があった。

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蜥蜴

食う・飲むを詠む(3/6)

  水(みづ)芥子(からし)冬のしげりを食ひ尽しのどかに次の伸びゆくを待つ
                       土屋文明
  道に倒れし馬なりしことは後に知りき幼くて食ひしにくといふもの
                       土屋文明
  何をして食ふかと村人の疑ふまでとどまりし彼の谷を忘れず
                       土屋文明
  何が食ひたい言はれて答容易ならず食ひたいと思ふ物がないのだ
                       土屋文明
  吾(われ)と嬬(つま)は寒き朝あけ飯くふと火鉢のふちに卵わりをり
                      結城哀草果
  その手もて飯食ふことの悲しさを知りにたりける少年職工
                       窪田空穂
  新年(にひどし)の新日(にひひ)来にけり長(なが)寝(ね)よりさめてぞ

  一人酒瓶(みか)の酒(みき)のむ       尾山篤二郎

 

 土屋文明は、群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれた。祖父は賭博で身を持ち崩し、強盗団に身を投じたあげく北海道で獄死したという。村人たちの冷たい目があり、幼い文明にとって、故郷の村は耐えがたい環境であった。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)卒業後、伊藤左千夫の世話により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現・東京大学)に進学することができた。上の五首には、文明の食環境が現れている。
 結城哀草果は、山形県山形市菅沢の出身。『アララギ』に入会し、斎藤茂吉に師事。東北の農村生活を歌い、随筆にも書いた。誠実な農民歌人として知られる。斎藤茂吉記念館初代館長。
 尾山篤二郎は、石川県金沢市出身。金沢商業学校の学生時に結核に感染し、右足の切断を余儀なくされる。金沢商業学校は中退した。窪田空穂を慕い、のちには窪田の主宰する『国民文学』の同人にもなっている。前田夕暮若山牧水らとも知己になった。

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火鉢