平安・鎌倉期の僧侶歌人(13/17)
慈円(久寿2年(1155年)〜 嘉禄元年(1225年))
平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。摂政関白藤原忠通の子。幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。
「生活感」
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空 新古今集
*「おき」: 置き・荻の掛詞。荻は歴史的仮名遣いでは「をぎ」だが、当時は
「おき」と書いた。
世の中を心高くもいとふかな富士のけぶりを身の思ひにて 新古今集
*「心高くも、俗世を厭離することよ。天へ昇る富士の煙を我が身の望みとでも
するように。」
有明の月のゆくへをながめてぞ野寺の鐘は聞くべかりける 新古今集
里の犬のなほみ山べに慕ひくるを心の奥に思ひはなちつ 拾玉集
[旅の感懐]
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな 千載集
山路ふかく憂き身のすゑをたどり行けば雲にあらそふ峰の松かぜ 拾玉集
[人生観]
さとりゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき故郷もなし 新古今集
せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿はさだめむ 拾玉集
わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る 拾玉集
平安・鎌倉期の僧侶歌人(12/17)
寂蓮(保延5年(1139年)? ~建仁2年(1202年))
三十代半ばで出家、後に諸国行脚の旅に出た(河内・大和などの歌枕、出雲大社、東国など)。歌道にも精進し、御子左家の中心歌人として活躍。「六百番歌合」での顕昭との「独鈷鎌首論争」は有名である。1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。享年64。書家としても有名。
[注]独鈷鎌首論争: 六百番歌合のとき、僧顕昭が独鈷を手に持ち、僧寂蓮が
首を鎌首のようにもたげて論争したのを、左大将藤原良経家の女房たちが
「独鈷鎌首」とあだ名した。
六百番歌合: 鎌倉時代前期、12人の作者があらかじめ詠んでおいた 100
題の歌各人 100首,計 1200首を 600番の歌合とし,披講したもの。判者は
藤原俊成。
[生活感]
暮れて行く春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟 新古今集
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 新古今集
*西行、定家と並ぶ「三夕の和歌」として有名。
村雨の露も未だ干ぬ槇の葉に霧立ち昇る秋の夕暮 新古今集
鵜かひ舟高瀬さしこすほどなれや結ぼほれゆく篝火の影 新古今集
ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮 新古今集
[旅の感懐]
葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 新古今集
岩根ふみ峰の椎柴(しひしば)をりしきて雲に宿かる夕暮の空 千載集
*「岩を踏み越え、峰を登って来て日も暮れた。椎の小枝を折り敷いて、
雲の上に仮の寝床を作るのだ。」
やはらぐる光や空にみちぬらむ雲に分け入る千木(ちぎ)の片そぎ 夫木抄
*出雲大社に参拝した折の歌。千木の片そぎ:千木は屋根の両端の材木が棟で
交差して高く突き出した部分。
[人生観]
数ならぬ身はなき物になしはてつ誰(た)がためにかは世をも恨みむ 新古今集
*「物の数にも入らない我が身は、この世に存在しないものとして棄て果てた。
今はもう、誰のために世を恨んだりするだろうか。」
平安・鎌倉期の僧侶歌人(11/17)
俊恵(永久元年(1113年)~ 建久2年(1191年)頃?)
風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは異なる幽玄を確立したといえる。
[生活感]
すみれ草つみ暮らしつる春の野に家路教ふる夕づくよかな 林葉集
夕立のまだ晴れやらぬ雲間よりおなじ空とも見えぬ月かな 千載集
み吉野の山かき曇り雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ 新古今集
狩人の朝ふむ小野の草わかみかくろひかねて雉子鳴くなり 風雅集
[旅の感懐]
かりそめの別れと今日を思へどもいさやまことの旅にもあるらむ 新古今集
*まことの旅:文字通りの旅、つまり二度と帰ることのない旅。
[人生観]
ながむべき残りの春をかぞふれば花とともにも散る涙かな 新古今集
参考までに藤原俊成の歌をいくつか次にあげる。
世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲 新古今集
住みわびて身を隠すべき山里にあまり隈なき夜半の月かな 千載集
昔より秋の暮をば惜しみしが今年は我ぞ先立ちぬべき 長秋詠藻
思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは 新古今集
俊恵の方が、透明度が高いように感じられる。仏門に帰依した功徳なのだろうか。
平安・鎌倉期の僧侶歌人(10/17)
西行(元永元年(1118年)~文治6年(1190年))
保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)頃に奥羽地方へ旅行し、久安(1149年)前後に高野山に入る。 仁安3年(1168年)に中国四国へ旅した。この時、讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んだらしい。後に高野山に戻り、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行った。伊勢国に数年住まった後、河内国の弘川寺に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。
歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。
[生活感]
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき 続後拾遺集
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 新古今集
なげけとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな 千載集
古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮 新古今集
ここをまた我住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ 山家集
[旅の感懐]
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山 新古今集
道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ 新古今集
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮 新古今集
*有名な「三夕の和歌」の一首。他に定家、寂蓮の二首あり。
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな 新古今集
つねよりも心ぼそくぞ思ほゆる旅の空にて年の暮れぬる 山家集
[人生観]
なにごとも変はりのみゆく世の中におなじかげにてすめる月かな 続拾遺集
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ 続古今集
あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき
平安・鎌倉期の僧侶歌人(9/17)
行尊 (天喜三~長承四(1055-1135))
平安時代後期の天台宗の僧侶(平等院大僧正)・歌人。三条院の曾孫。大峰・葛城・熊野など各地の霊場で修行。白河院・鳥羽院の熊野臨幸に供奉。また画もよくし、衣冠を着けて歌を詠んでいる柿本人麻呂像を夢にみて写したという画があり、人麻呂像の最初のものとされる。
[生活感]
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 金葉和歌集
心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり 金葉集
*熊野で修行中の行尊を、知りあいであった藤原祐家が見分けられなかった
場面で詠んだ。
春くれば袖の氷もとけにけりもりくる月のやどるばかりに 新古今集
木の間もるかたわれ月のほのかにも誰か我が身をおもひいづべき 金葉集
寝ぬほどに夜や明けがたになりぬらんかけひの水の音まさるなり 新後拾遺集
すみなれし我が古郷はこの頃や浅茅がはらに鶉なくらむ 新古今集
[旅の感懐]
かへりこむほどをばいつと言ひおかじ定めなき身は人だのめなり 千載集
いづくともさしてもゆかず高瀬舟うき世の中を出でしばかりぞ 玉葉集
あはれとてはぐくみたてし古へは世をそむけとも思はざりけん 新古今集
*若年の修行時代に、熊野から大峰に入る際に、育ててくれた乳母に贈った歌。
[人生観]
数ならぬ身をなにゆゑに恨みけんとてもかくてもすぐしける世を 新古今集
この世には又もあふまじ梅の花ちりぢりならんことぞかなしき 詞花集
*この歌を詠んでほどなくして行尊は亡くなった。
平安・鎌倉期の僧侶歌人(8/17)
道因 (寛治四(1090)~没年未詳)
平安時代後期の貴族(藤原北家高藤の末裔)・歌人・僧。出家の身ではあったが、歌道に志が深く、たいへん執着していた。七、八十歳の老年になってまでも「私にどうぞ秀歌を詠ませてください」と祈るために、歌神として信仰されていた大坂の住吉大社までわざわざ徒歩で、毎月参詣していたという。実際の歌会のときも、とくに講師の席の近くに座って、歌の講評をひと言も聞き漏らすまいとするような態度で耳を傾けていた。
[生活感]
山のはに雲のよこぎる宵のまは出でても月ぞなほ待たれける 新古今集
*山の端に雲がたなびいている宵は、月が出ても満足できず、さらに月が出て
くるのでは、と待たれる、という。独自の感覚。
月のすむ空には雲もなかりけりうつりし水は氷へだてて 千載集
*冬空と地表面の情景を対比させている。新鮮な感覚。
みなと川夜ぶねこぎいづる追風に鹿のこゑさへ瀬戸わたるなり 千載集
[旅の感懐]
月みればまづ都こそ恋しけれ待つらむとおもふ人はなけれど 千載集
[人生観]
ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老いにけるかな 千載集
*「花の散るかわりに我が身を差し出したいとまで思ってきたけれども、それも
かなわないまま、年老いてしまったことよ。」
いつとても身のうきことはかはらねど昔は老をなげきやはせし 千載集
思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり 千載集
*「恋に思い悩んだり嘆いたり、それでも命はなんとか永らえられるが辛さに
耐えきれないのは涙なのだ。」
身につもる我がよの秋のふけぬれば月みてしもぞ物はかなしき 玉葉集
平安・鎌倉期の僧侶歌人(7/17)
良暹(りょうぜん) (生没年未詳(990頃~1060頃))
平安時代中期の僧(比叡山の天台僧)・歌人。歌語をめぐって論争した話や,良暹の詠んだ上句に誰も下句を付け得なかった話など,多くの説話が伝えられている。
[生活感]
さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮 後拾遺集
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり 詞花集
*荒廃した家でこそ月光の侘びた風情を味わえるという(隠者の趣味)。
逢坂の杉のむらだちひくほどはをぶちに見ゆる望月の駒 後拾遺集
*詞書に「八月駒迎へをよめる」とある。諸国から献上される馬を逢坂の関で迎える
行事の際に詠んだ歌なのである。「をぶちに見ゆる」とは、馬の毛が斑模様に見え
ること。紀貫之の
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒 (拾遺集)
を本歌とする。
[旅の感懐]
あまつ風雲ふきはらふ高嶺にて入るまで見つる秋の夜の月 詞花集
[人生観]
たづねつる花もわが身もおとろへて後の春ともえこそ契(ちぎ)らね 新古今集
死出の山まだ見ぬ道をあはれ我が雪ふみわけて越えむとすらむ 俊頼髄脳