五感の歌―視覚(3/3)
みじかなる焔(ほのほ)燠(おき)よりたちをりてこのいひ難きいきほひを見ん
佐藤佐太郎
草がくる杙一つをば測量機のレンズの中に吾は見て居し
近藤芳美
*(光波)測量機は、光波を用いて特定の距離を測定する機械。
見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
寺山修司
*上句と下句の取合せが、いかにも劇的で寺山修司調である。
幻視とはわれは思はず凍空より樹より脱走する血を見たり
春日井建
*幻視: 実際にはないものが、あたかもあるように見えること。「樹より脱走
する血」を想像することは、容易ではない。樹の一箇所の傷口から噴き出すのか、
どうか。
馬のむれ牛のむれ谷を隔てつつわが眼にあやし遠近の感
植松壽樹
*谷を隔ててみる馬のむれ牛のむれの遠近関係が、よく分らなかったのだろう。
近づきて仰ぐたぶの木ゆつたりとわれの視線を空にみちびく
沢口芙美
五感の歌―視覚(2/3)
見てのみや人に語らむ桜花手ごとに折りて家づとにせむ
古今集・素性
*家づと: 家への土産(みやげ)。
「見ただけの様子を人に話そうか、いや、それぞれが手に折った桜を持って家
への土産にしよう。」
逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき
新古今集・上東門院
*藤原彰子(上東門院)が、夫の一条天皇が崩御した際、夢の中でほのかに見えた
ので詠んだという歌。「逢うことも今はもう無い。泣き寝の夢の中でだけ逢う
のではなく、いつかまたあなたにお逢いできるのでしょうか。」時に条天皇33歳、
彰子28歳であった。
おく山の峰とびこゆる初雁のはつかにだにも見でややみなむ
新古今集・凡河内躬恒
*「奥山の峰を飛び越えて行く初雁のようにわずかにでも見たいのに、見ないまま
に終わってしまうのでしょうか。」
見てもまたまたも見まくのほしかりし花のさかりは過ぎやしぬらむ
新古今集・藤原高光
*一首の意味は、「一度逢ってもまた重ねて逢いたく思ったものだった、あの花
の盛りはもう過ぎたであろうか。」これには、古今集・読人しらずの本歌、
見ても又またも見まくのほしければ馴るるを人は厭ふべらなり
がある。
鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく
正岡子規
わが眼(め)いま向ふに迷ふ見ずもあらず見もせぬ国をさやに見むとて
尾上柴舟
五感の歌―視覚(1/3)
このシリーズでは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感を詠んだ作品を見ていく。
視覚の見る、視る、診るには、目を向けると会うという二種類がある。ここでは、積極的に見る、視る場合を取り上げる。なお、古くは「見る」こと自体、呪的な意味がこめられていたという。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見
万葉集・天武天皇
*天武天皇が、吉野離宮にお出ましになった時の御製歌。当時の吉野は霊力の
満ちた特殊な場所と考えられていて、吉野への行幸が盛んであった。
「昔の優れた人がよいところだとしてよく見て、「よい」と言った吉野をよく
見なさい。今の優れた人はよく見なさい。」
秋山に落つる黄葉(もみぢば)しましくはな散り乱(まが)ひそ妹があたり見む
万葉集・柿本人麿
*柿本人麿が、石見の国から奥さんと別れて都に旅立ったときの歌の一つ。
「秋山に落ちる紅葉よ、しばらくは散らないでおくれ。妻が居る方をもう少し
見ていたいから。」
われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処(おくつきどころ)
万葉集・山辺赤人
*葛飾の真間の手古奈伝説: 手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて
二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという。
奥津城処は、彼女の墓所。
昔こそ外にも見しか吾妹子(わぎもこ)が奥つ城(き)と思へば愛(は)しき佐保山
万葉集・大伴家持
*佐保山は、奈良市佐保山町の佐保川北方に広がる丘陵地帯の総称で、西部の
佐紀山と合わせて平城山丘陵を形成する。周囲には聖武天皇ら皇族の陵墓が点在。
わが背子を吾が松原よ見渡せば海人をとめども玉藻刈る見ゆ
万葉集・三野連石守
*三野連石守は、大伴旅人の従者で、大宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられて
帰京する際、別に海路をとって上京した。
「吾が大伴卿をお待ちする松原を見渡すと磯の娘たちが玉藻を刈っている
のが見える。」
薬を詠む(6/6)
いかなる生も敗北ならば、薬包紙たたいて寄せる白色の粉
加藤治郎
*これも鑑賞に困る作品。下句は別の事象に置き換えることができる。
二読、三読して戸惑うばかり。
薬の包み抱きて帰る坂の上にひかりは淡き夕月を恋う
近藤芳美
*坂の上に明かりの点いた自分の家があるのだろう。
ひたすらに薬匙磨けりほのぼのと楕圓をなせる魂(たま)生るるまで
石橋妙子
*薬匙: 「やくさじ」と読む。粉末状の薬品を容器から移し替えたり、盛り
分けたりするための匙。作者は、神戸女子薬学専門学校(現神戸薬科大学)
出身である。薬匙の形に魂を見ている。
いまわれのあつかひゐるは百人の致死量をらくにこえむ薬液
外塚 喬
遠雷の轟きやまぬ雨夜にて薬剤捏ねるてのひら熱し
中埜由季子
薬呑を透し逆さまに机上見ゆ虚構のごときその整ひよ
滝沢 亘
*薬呑: 「くすりのみ」と読むのだろう。病人が寝たままの状態で薬や水を
飲みやすいように工夫された容器。一般的には吸いのみと言われている。
壜の蓋固く締まるを開けむとし病もつ身は力を吝(お)しむ
橋本喜典
薬を詠む(5/6)
ものぐさくありふるわれによく煎じ呑めよとたびし山の薬草
木俣 修
*薬草: 薬用に用いる植物の総称。草本類だけでなく木本類も含むため、
学問的な場面では、より厳密な表現の「薬用植物」のほうが用いられることが多い。
手術室に消毒薬のにほひ強くわが上の悲惨はや紛れなし
中城ふみ子
*中城ふみ子は乳癌を病み、手術と再発に苦しんだ。
湿布薬にほはせて子が眠る夜 われははるけき雪野にすわる
小島ゆかり
*下句は、何しようもない作者の心情表現である。
夜半清冷の水薬(すいやく)を目にしたたらせ瞑(つむ)れば杳(とほ)き氷原がみゆ
富小路禎子
*水薬: 薬物を水に溶かした薬剤。一般には液状の飲みぐすりをさす。
蚊帳の外に吾児は来れり水薬の瓶(びん)を手にもち母を呼びつつ
原阿佐緒
*恋愛問題の多い原阿佐緒には、異なる男性との間にふたりの男の子があったが、
この歌の吾児がどちらを指すか不明。
膏薬を炙(あぶ)っているとかかる夜にかぎって山は山火事である
山崎方代
*膏薬: 皮膚外用剤の一種で、皮膚または粘膜に塗ったり貼り付けたりして、
その保護、防腐、殺菌、緩和、痂皮(かさぶた)軟化をはじめ、薬物の吸収や
肉芽の発生を期待するものをいう。
くすり湯の鼻曲るまでくさき湯に永くし浸るもたのもしくして
植松寿樹
くだちゆく夜しみじみと母上があかぎれに塗る薬は匂ふ
松倉米吉
*くだちゆく: 時間がすぎる、衰えゆく、末になる、という意味。ここでは、
更けてゆく夜。
薬を詠む(4/6)
七曜の用の一つはストマイの臀の左右を指定せむため
滝沢 亘
*ストマイ: ストレプトマイシンの略。放線菌の一種からみつかった抗生物質。
細菌類、特に結核菌に対して著しい効果がある。副作用として、耳鳴り、難聴、
めまいなどが起こることがある。ところでこの歌、私には解釈不能! 上句、
下句ともに情景を思い描けない!
かの人の口真似をしてからうじてここまでは来つ効(き)けアスピリン
岡井 隆
*アスピリン: アセチルサリチル酸の別名。1899年以来用いられているすぐれた
解熱鎮痛剤の一つ。白色の板状または針状結晶。かの人の口真似をしたために熱が
出たのだろうか。アスピリンで抑えてまだ口真似を続けるつもりか。ペーソスに
満ちている。
エレンタールが気道に逆流せし後の数刻の夫おもはぬ日なし
立川敏子
*エレンタール: ほとんど消化を必要としない成分で構成された極めて低残渣性・
易吸収性の高カロリー栄養剤。通常、手術の前後や腸の病気などで食事の摂取が
困難な場合の栄養管理に用いられる。
薬害を知りつつも服(の)むコーチゾン飲まねばなほ苦しと告ぐる妻かな
宮岡 昇
*コーチゾン: ステロイドホルモンの一種。副腎皮質ステロイドに分類される。
様々な病気の治療に用いられることがあり、その際には点滴静脈注射を行うか、
または皮膚から投与される。その副作用は多種ある。誘発感染症、肝炎、
消化管潰瘍,膵炎,緑内障等々。
一人病む夜のすさびに眠薬の壜の小文字を読みふけるなり
上野久雄
*眠薬: 周知のように睡眠薬のこと。不眠症や睡眠が必要な状態に用いる薬。
睡眠時の緊張や不安を取り除き、寝付きを良くするなどの作用がある。
安定剤服みたるあとを襲い来るこのけだるさに口紅をひく
久保田ゆり子
*安定剤: この歌の場合は、精神安定剤をさす。口紅を引いて気分転換をはかって
いるのだ。
Death More(もつと死を) なる褐色のくすり冬の夜のねずみを取らむ薬なれども
葛原妙子
*結句の言いさしが不気味。
計量器の針が歓喜のごとく揺れ計られゐるは微量の劇薬
真鍋美恵子
*劇薬: 毒薬に次いで生体に対する作用が強く,過量に使用するときわめて危険性
が高い医薬品。一般的には,微量で致死量となるもの,中毒作用のあるもの,蓄積
作用が強いもの,薬理作用が激しいものなどをさす。「歓喜」と「劇薬」の対比の
作者の感情をこめている。次の歌を合せて読むべきなのだろう。擬人法である。
象(かたち)なきものの重さを感じゐん計量器は針ゆれ易くして
真鍋美恵子
薬を詠む(3/6)
糖衣錠あるいは色の華美にすぎてころがり易し薬包紙より
斎藤 史
アンプルのうすき破片を事務的に寄するとき鈴のごとき音する
斎藤 史
*アンプル: ガラス製の首のくびれた小型の容器。口部はガラスを溶かして
密封する。おもに注射液を入れるのに用いられる。
耳鳴りのする寒き夜一粒の黄の錠剤を口にふくみつ
木俣 修
何か言ふ人もあらねばこぼしたる黄の錠剤をかき寄せてをり
大西民子
*初句二句は、作者と別れた夫のことを念頭においていよう。
どっちかというとゆかいさ ぱらぱらとペーパーカップいっぱいの錠剤
加藤治郎
*鑑賞に困る作品である。愉快かどうかは、錠剤と関係しているのだろうか。
自暴自棄の心境か。作品の評価を鑑賞の仕方に預けているではないか。
行き行けぬ雪山はるかに想いいて乳鉢(にゅうばち)に摺る白き薬粒
小林敬枝
*乳鉢: 固体を粉砕または混和するために使用する鉢。乳棒(にゅうぼう)と
共に使用される。