天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

台風・出水(でみず)

 台風が連続した上に大雨が降って、河川の氾濫数知れず、復興はままならない。テレビのニュース映像では、災害状況の報告が絶えない。短歌や俳句の季語は、季節を代表する景物で成り立っているが、現代の気象変化・文明の進歩には追い付かない面がある。
 出水は、従来梅雨時期の洪水を代表する夏の季語であった。雪解けによるものは春出水とし、今回のような秋の台風や大雨による洪水は、秋出水とすることになる。ちなみに台風は秋の季語。台風のもたらす災害は、颱風禍が季語にある。ところで、颱風という言葉が使われ始めたのは、明治時代末期に当時の中央気象台長の岡田武松による。颱風の語源は、台湾や中国福建省にあるらしい。またアラビヤ語やギリシャ神話とも関連あるという。日本では、古くから野分と呼んだ。実にリアリティのある言葉だが、少しみやびで大災害を連想しにくい。

     干竿の落ちて流るる秋出水      篠原温亭  
     秋出水蛇居て去らぬ竈口       萩原麦草
     くちなはも流れ着くなり秋出水    中村苑子
     光つつ仏壇沈む秋出水        東條素香
     颱風の名残の驟雨あまたたび     高浜虚子
     颱風や守宮(やもり)は常の壁を守り  篠原鳳作
     颱風圏放置されたる耕耘機     山崎矢寸尾

  あさぢ原野分にあへる露よりもなほありがたき身をいかにせむ
                    新勅撰集・相模
  颱風の眼に入りたる午後六時天使領たるあをぞら見ゆる
                       小池 光

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台風19号 (webから)

万葉集を読む会

 この会は平成4年4月に発足、横浜市民の有志を中心に最近まで続いたという。その間、「わたしと万葉集」から「わたしの万葉集」と会の名称が変わった。それにしても26年間、すばらしい活動と言えよう。昨年9月に89歳で亡くなった林利喜夫氏が講師を務められたらしい。
 実は会員の川井怜子さん(「短歌人」所属)から、先日、「わたしの万葉集」という小冊子をいただき、「あとがき」から経緯を知った次第。この冊子には13名の会員の方々の思い出が記されている。
万葉集の好きな歌(例えば防人の歌)、◆大伴家持の生涯、◆万葉集との出会い、◆森鴎外内田康夫万葉集の関わり、◆今は使われなくなった万葉集の心惹かれる言葉「おぼほし」、◆逆に現在ではよく使われる「かなし」の由来、◆万葉集に詠まれた情景に関わる自分の思い出 等々。
 順不同に大雑把に紹介したが、会員の皆さんそれぞれの知見・体験がうらやましく感じられる冊子であった。

 なお「万葉集を読む会」は、あちらこちらにあるようなので、注意を要する。

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「わたしの万葉集

小池 光の短歌観

 小池 光さんの最新歌集『梨の花』(現代短歌社)を入手した際に、「現代短歌新聞」(2019年10月/91号)が謹呈・見本として同封されていた。その一面にインタビュー記事があり、小池光さんの短歌観や作法が語られていた。
 以下に要点を抽出しておく。

◆(小池さんは)前衛短歌を読んで短歌を始めたのだが、わりと早い時期から
 これは違うな、と感じた。前衛短歌は白黒ではなく豪華絢爛たる色彩に
 あふれた世界。白黒世界を好む自分の資質とか感覚とはちょっと違うな、
 と思った。
◆(小池短歌に)似ているものは、いわゆる近代短歌、というより斎藤茂吉
◆短歌には思わず笑っちゃうみたいな要素がとても大事。茂吉の歌にはそれが
 いっぱいある。
◆(小池さんの場合)歌を作るというと、三日四日かけて歌のほうに心を傾け
 てゆく。この三日間には他の予定を入れないで、空けておく。

◆ぼんやり外を見ながら考えていると、集中が高まってパカッパカッと歌が
 できる。それらを短歌手帳に五七五七七のかたちでメモしておく。家に
 帰ってワープロに入れて推敲する。二三日寝かせておくというのも大事。
 他人の眼で見える。
◆茂吉の歌集は今でも読んでいる。おもしろいのは最後の『つきかげ』で、
 笑える歌がいっぱいある。『連山』という満州旅行の歌集も大事。あれを
 読んでいると歌ができる。
◆前衛短歌はいわば関西の文化。饒舌な色彩感あふれる世界。塚本も典型的に
 関西の人。東北人はしゃべらない。茂吉は歌がうまい。 

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「現代短歌新聞」(2019年10月/91号)

小池光歌集『梨の花』(11/11)

■その他
 最後になるが、これまでに取り上げなかった技法の歌をいくつか取り上げる。

*比喩: 『梨の花』では「ごとし」を用いた直喩が目立つ。
  黒雲のしたに梨の花咲きてをりいまだにつづく昭和の如く
  ひとふくろの蜜柑のなかに黴(かび)ふける一個ありたりさながらにわれ
  わが希(ねが)ひすなはち言へば小津安の映画のやうな歌つくりたし
*擬人法: 親近感、ユーモアをおぼえる。
  新春のひかり受けむとおのづからシクラメンの鉢が窓の辺(へ)に寄る
  高速道下の小公園にブランコはたつたひとりの子を座(すわ)らする
  日のあたる卓のうへにはしづかにもものおもひする冬の蠅ひとつ
*とり合せ: 「捻れ」をもたらす接続法に惹かれる。
  ピラカンサの赤実を夕日照らすとき癌に倒れし島倉千代子
  いただきに夏雲かかる筑波山見えてあたらしき死者のいくたり
  かたはらを立ち去りゆきしいのちいくつ秋明菊は庭に咲き初む
*掛詞: 『梨の花』での例は少ない。
  もしわれにいもうとをらば春咲きの桃井かおりの年齢(とし)くらゐなる

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ブランコ

小池光歌集『梨の花』(10/11)

         

■(一面的な)事実・真実をそのまま入れる
 短歌の入門時には、日記や記録のような事実はそのまま詠んでは歌にならない、と教わる。現在でも歌人の中には、こうした主張をする人たちはいる。だが、小池さんの作品を読むと、そうではない、一面的な事実・真実をそのまま詠んだものが随分多く、十分に感銘を与えるということを実感する。小池さんは「小池光短歌講座」において、次のようなことを述べている。
「科学的なことはすごく短歌になる。不思議なことが山ほどあって、歌にすると
 不思議な歌がいっぱいできる。」
「当たり前のことを当たり前に言い切ったとき、不思議なものがうまれる。」
「事実だけを述べて感想は言わない。」
以下に例歌をあげるが、固有名詞の魅力が大きいことを痛感する。

  林間のひとすぢの道車窓より一瞬みえて人あゆみをり
  紙をきる鋏に鼻毛きりたればまつしろき毛がまじりてゐたり
  アッツ島全滅のさま描きたる藤田嗣治スイスにて死す
  くらやみの庭に向かひて少年は西瓜の種を口より飛ばす
  北川辺(きたかはべ)産こしひかりの米買つてわが帰りゆくひとりの家に
  利根川渡良瀬川と合ふところ砂州ありて遠く白鷺が立つ
  イタリアの旅よりかへりし弟はさまざまな絵はがきなど呉れぬ
  介護付老人ホームの裏庭に木槿(むくげ)は咲きぬむらさき淡く
  春の日のあたたかき日の電車より喪服の夫婦降りてゆきたり
  新幹線喫煙ルームにのむたばこ小さき窓より富士のやま見ゆ

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利根川

 

小池光歌集『梨の花』(9/11)

■あはれ(感嘆詞、形容動詞、名詞)
 小池さんは、仙台文学館「小池光短歌講座」(二00七年度 第一集)において、

  「あはれ」を使うのは度胸がいる。今までまったくないものに
  「あはれ」をつけないと、「あはれ」の甲斐がない。
と語っている。
この歌集には、「あはれ」を入れた歌は11首(全体の2%)ある。以下にすべてあげる。

  あけがたの小(ち)さき地震に目覚めたりふたたびねむることのあはれさ
  三十一年わが勤めたる学校が電車の窓をよぎるあはれさ
  久しぶりに黒靴履けばあはれあはれかかとはいたく擦りへりてをり
  呉清源のいまはのまなこに映りたる白い石あはれ黒い石あはれ
  死のきはの猫が噛みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ
  すぎこしをおもへばあはれむすめ二人の婚礼があり妻の死があり
  わが半生かへり見すれば自転車泥棒いちどもせずに来たりしあはれ
  雨ふるなかまよひてきたるしじみ蝶あはれとまれり紅萩のはなに
  そのむかし五能線にてわがみたる風合瀬(かそせ)の海のしらなみあはれ
  ヘアピンまで取り上げられし朴槿恵(パククネ)をごく平凡にあはれみおもふ
  生活はここにもありて交番の裏口に立つガスボンベあはれ

 これまでの十歌集について、「あはれ」の歌の割合を調べてみると次のようになっている。

 『バルサの翼』(1.4%)、『廃駅』(2.6%)、『日々の思い出』(2.0%)、
 『草の庭』(2.5%)、『静物』(1.2%)、『滴滴集』(1.4%)、
 『時のめぐりに』(0.7%)、『山鳩集』(1.1%)、『思川の岸辺』(1.3%)、
 『梨の花』(2.0%)。

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ガスボンベ

小池光歌集『梨の花』(8/11)

■ユーモア、ウィット(ユーモア+批評)、ペーソス
 和歌短歌の持つ情感の基本にユーモア(人の心を和ませるようなおかしみ)とペーソス(そこはかとなく身にせまる悲しさ)がある。これらの感情を表現するには、品詞の使い方に工夫が必要である。小池さんの短歌では、特にユーモアをまとった作品に特長があり、文節や言葉の取り合わせ、副詞や助詞・助動詞の配合に惹かれる。

  足の爪赤く塗りたる姉むすめ青く塗りたる妹むすめああ
  父の日にむすめがくれし甚平(じんべい)を妻の遺影のまへに置きたり
  元日の郵便受けに入りてゐし「ピザ」のチラシの沁みてかなしも
  みちばたに灰皿あれば立ちどまり一本吸へり 春がくるかな
  ひとふくろの蜜柑のなかに黴(かび)ふける一個ありたりさながらにわれ
  あんぱんの臍(へそ)を発明したる人円満なる晩年を送りたりけむ
  パンダの縫ひぐるみひしと抱きしめて百四歳の母の誕生日
  すがすがとわれは居るべし雪ふる夜(よる)再婚話のひとつとてなく
  金之助といへる金魚を飼ふひとと新年会にて挨拶かはす
  しあはせな「いちご大福」の看板もバスの中よりわが眼はとらふ

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パンダの縫いぐるみ