天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

2006-01-01から1ヶ月間の記事一覧

オイラーの公式

昨日はまことにうららかな日よりであったが、今日は一転雨が降った。遠出はできないので「博士の愛した数式」という映画を見に行った。映画館に入るのは去年の夏に見た「亡国のイージス」以来。久しぶりに大人のメルヘンというか純粋な文芸作品に出会った思…

こよろぎの磯

大磯の県立城山(じょうやま)公園は、三井家の別荘跡である。東海道を挟んで向かいには吉田茂の邸宅跡がある。湘南の大磯は近代にあっては政治家や財閥の別荘地として拓かれたのだ。江戸時代の大磯の宿から寂れることなく現代に繋がった宿場は珍しい。地形と…

浪子不動

今日は、はじめて逗子の浪子不動を訪ねた。実につまらないところであった。雨戸を立てまわして中を見る隙間もない。市街からえらく離れているので訪れる観光客もいないのだが、裏山の披露山公園には、自動車で多くの人が来ているのだから、お堂の内ぐらい見…

早春の湘南平

朝九時に毎月一回の定期診断のために藤沢の医院を訪れ、今回は血液検査のための採血をし、いつもの血圧とコレステロールの薬を処方してもらい、マクドナルドでチーズ&ソーセージのバーガーを食べ大磯に行った。高田保公園から湘南平にのぼる。 鉄柵につなが…

現代の定家(7)

塚本の戀の歌の続き。「水銀傳説」は、ヴェルレーヌとランボーの同性愛を歌った連作である。ヴェルレーヌからランボーにあてた五十首と、ランボーからヴェルレーヌにあてた五十首の二部構成をとる。 五月新緑みなぎる闇に犯しあふわれらの四肢の逆しまの枝 …

現代の定家(6)

題詠とは、予め与えられた題によって歌を詠むことであり、古今和歌集以後特に凝ったものになり、歌合や屏風歌が盛んになるにつれ歌の本筋のように扱われた。新古今和歌集の戀の部について見てもまことに複雑な題が設定されている。「初恋」「忍恋」「聞恋」…

事の本質

姉歯事件、ライブドア事件などで、政治家や世の有識者・オピニオンリーダと称する人たちが、改革路線が悪いようなキャンペーンを繰り広げているようだが、ちょっと待ってくれといいたい。 彼らの論調では、「だまされた方に責任がある、謝れ!」ということに…

面白くない

二月号の「俳句研究」に発表されている俳句作品を読んでいるが、さっぱり面白くない。うまい、すごい、といったものがまったく見当たらないのだ。 例えば、ベテランの高橋睦郎が五十二句をまとめて出しているが、どこが良いのやらわからない作品がある。 咲…

現代の定家(5)

塚本の短歌には、有名人の忌日を読み込んだ作品が実に多い。有名人の忌日が題詠の素材になったがごとくである。カレンダーにしてその日の事象、感想と組み合わせて詠んだと思われる。 伐つた櫻の腕ほどの幹花交(まじ)へはこびこまれつ 沖田総司忌 *新撰組随…

短歌人新年歌会

例年のように神田の学士会館で、今年の歌会が開かれた。全詠草の中から各人十五首を選んで得点数を出す。面白い現象だが、編集委員たちの得点が例年大概に低いのである。 編集委員は、毎月それぞれ短歌人会員の投稿歌の選を担当し、歌壇で活躍している有名歌…

雪の鎌倉

天気予報どうり雪が降って、夜明けの窓から見ると既に積もっていた。雪の吟行ルートはまた格別であろうと、江ノ電に乗り、極楽寺、長谷寺、光則寺、長谷大仏、甘縄神社、鎌倉文学館とたどった。咲いたばかりの蝋梅にまた椿に、積もった雪は目にしみて新鮮で…

現代の定家(4)

塚本自身の戀の歌について。いかに定家に傾倒したとはいえ、今更定家と同じような情況や心情を詠むわけがない。そこで彼が取り上げたのは、ホモセクシャルな愛、しかも男色、といっては言いすぎかもしれないが、男同士の愛であった。 湖水あふるるごとき音し…

現代の定家(3)

塚本邦雄が、定家の戀の歌から究極の四首を選んでいる。この四首を越え得る絶唱佳吟は王朝和歌、全勅撰集を通じていくばくもあるまい、と絶賛している。その所以の説明をこれも部分的に引いておこう。塚本の鑑賞の華を見る思いである。 あぢきなくつらき嵐の…

現代の定家(2)

新古今集に採られ、教科書にも出ている有名な藤原定家の歌を、塚本がどのように評価しているか、部分的ながら紹介しておこう。教科書などでは決して取り上げない独自の鑑賞である。 駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕ぐれ *要するに一種…

現代の定家(1)

今日は名古屋から伊丹に出張する。 朝光(あさかげ)の積雪まぶし比良の山 塚本邦雄著『定家百首』を読み続ける。現代の定家と自認する塚本の背景には、彼の次のような言葉がある。“ 佐佐木信綱校訂、岩波文庫版『新古今和歌集』は、その後三十数年間に積み重…

白鳥古墳

宮参りに訪れた熱田神宮の境内のパネルに芭蕉の次の句が大きく書かれていた。 磨ぎなをす鏡も清し雪の花 身のうちに太鼓ひびかふ神楽殿朱き袴がすり足にくる ありがたき祝詞の声に頭を垂るる年の初めの初宮詣り うら若き祝詞の声に頭を垂れて子の寝顔見る初…

春の夕暮

明日の宮参りのために名古屋にゆく。塚本邦雄著『定家百首』を読み続けているせいか、目にした情景が新古今調になってしまった。 水清き川上翔ちて川下へ鵜はとびゆけり春の夕暮 町川のせせらぐ岩に鴨をりて羽づくろひする春の夕暮 街川のせせらぎあれば小鷺…

永福寺舊蹟

今朝の産経新聞・神奈川版に、鎌倉二階堂の永福寺が復元されるという記事があった。平成二十三年には伽藍の基壇部分や庭園の池などが公開されるという。市では昭和四十二年から土地の買収を行っており、教育委員会は昭和五十八年から十年以上の発掘調査を続…

頭韻

塚本邦雄が新古今集から学んだ技法にこの頭韻がある。例えば、次のような歌と解説。 荒れわたる秋の庭こそあはれなれまして消えなむ露の夕暮 藤原俊成 これの素晴らしさは、上三句、全部「あ」の頭韻でそろえているところ。下句はまことに悲しい内容だが、上…

句またがり、句割れ

短歌において句という場合は、音韻上の五音、七音のまとまりを指す。どことなく曖昧だった句またがりや句割れという現象を、小池光が初めて厳密に定義している。例歌はいずれも塚本邦雄の作品。『小池 光歌集』(現代短歌文庫)から要約しておく。 「句また…

本歌取り

塚本邦雄『詩歌星霜』(昭和五十七年八月、花曜社)を読んでいる。 明治の文芸ルネッサンス(承前)という章に、次の有名な一節が出てくる。 ”言葉を取るとか心を取るとか、そんなことは問題ではなくて、本歌と並び立つ、あるいは本歌を凌ぐ本歌取りをしてこ…

神機

新年になって今日初めて靖国神社に散歩にいった。拝殿・社頭掲示板には、「前線基地より」という今月の遺書が書かれていた。それに昭和天皇の次の御製を印刷したチラシがあったのでもらってきた。迎年祈世という題で、昭和十五年作。 西ひがし むつみかはし…

葛原岡

今日も休日。北鎌倉浄智寺の裏山に入り、葛原岡、銭洗弁天、源氏山公園、寿福寺とたどった。 葛原岡神社は、建武の中興の計画者で文章博士、従三位蔵人右少辨・日野俊基卿を祀る。北条高時の鎌倉幕府に捕えられた彼は元弘二年(一三三二)六月三日、ここで処…

城ヶ島

ずいぶん久方ぶりに三浦半島の城ヶ島を訪ねた。以前は、北原白秋にとりつかれて休日のたびごとに来て、白秋の足跡をきめ細かに歩いたものである。今の時期は水仙まつり。観光バスも入っている。 寒風の天日に干せる鯵、金目 七輪に焼き客を引き寄す 遊び舟の…

神代神楽

今日は一月七日、人日、七草粥を食べて一年の健康を祈る日である。七草粥など絶えて食べたことなどないので、正月から風邪などひくのであろうか。朝は薬を飲み夕方には酒を飲む。健康のためには、散歩くらいはせねばならない。鶴ヶ丘八幡宮に初詣にゆく。 初…

題詠と屏風歌

短歌では、《万葉集》のころにもあったが《古今和歌集》以後特に多くなり、歌合や屏風歌が盛んになるにつれて題詠が歌の本道のように考えられた。近代短歌では衰退した。というのが、題詠に関する百科事典の解説である。また屏風歌については、屏風に描かれ…

遺書

昨日は風邪がぶり返したか熱のでる心配があったので、朝急遽会社を休むことにした。一日寝ていたので、何も書くことはなかった。今日は出勤、車中で塚本邦雄関係の本を読んだが、何かを書くほどのことは見つからない。新年の「短歌人」一月号に掲載された歌…

箱根駅伝復路

こんな波乱が起きるとは。今日は、遊行寺坂で待っていた。遊行寺坂を一番に駆け上ってきたのは、往路の一位・順天堂大の走者であり、二位との時間差は数分あったので、このまま復路も征するのだろうと思った。ただ、坂を駈けてゆく姿は、かなり苦しそうにみ…

箱根駅伝往路

今日正月二日も天気が悪く、昼前から雨がふってきた。そんな中、恒例の箱根駅伝を東海道鉄砲宿の沿道に立って見た。遠出をする気分にもなれず、遊行寺まで歩いて往復するだけにとどめる。 境内では蚤の市がたっていたが、しぐれの中では店じまいするしかある…

サッカー天皇杯

元旦は昼から、次男夫婦が来たので牡蠣、鶏肉、蟹、椎茸、葱 などをちゃんこ鍋にして日本酒「菊姫」を酌みつつ、駅伝を見た。その後、浦和レッヅと清水エスパルスの試合を炬燵に入って寝そべって見た。年賀状を取りにゆき、出していなかったところに急ぎ追加…