天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

2006-04-01から1ヶ月間の記事一覧

面白い歌

午後一時から短歌人の横浜歌会なので、例のごとく昼前の時間を円覚寺ですごす。 色あはく日本の初夏に咲き出でしうんなん萩の姿はかなき ぼたん咲く八千代聖代両脇に黒光司金色の蘂 鶯の声みづみづし谷戸の朝 みどりさす画帳をのぞく円覚寺 薫風の唐門描く女…

湖底に沈む

本厚木からバスに乗って清川村宮ヶ瀬に行く。神奈川県の僻地であったが、ダムができたことによって湖底に沈んだ。これまで何度も行っており、どこに何があるかもわかっているので、どうということはないのだが、広島の僻村で育ったわが身には、何故か惹かれ…

石切場

真鶴岬を歩く。駅から荒井城址公園にゆく。ここは後三年の役(一0八三年)に源義家にしたがって活躍した荒井実継の居城の場所。のちに土肥氏の出城となり、また後北条氏時代にはのろし台が置かれた。山頂一帯の釈迦堂遺跡からは縄文式土器や石器類が出土し…

ダ・ヴィンチ・コード

世界中でベストセラーというダン・ブラウン著のこの本を、角川文庫版で今(中)巻を読んでいるが、 来る五月には映画が上映される運びで楽しみにしている。全部を読んでいないからうっかりしたことは言えないが、キリスト教の教義に関わる推理小説である。こ…

横浜山手徘徊

山手資料館刊、小寺篤著『横浜山手変遷誌』を片手に、横浜山手を歩いた。何年前であったか、夏休みに何度も通って歌に詠んだことがあるが、その折に山手資料館に入って購入した本であり、一通り眼を通している。なのに何故こうも惹かれるのか。この地の歴史…

気になる歌人

「短歌研究」五月号に、現代の男性歌人八十八人が、おのおの七首づつ歌を掲載している。日頃気にして歌集を読んでいる歌人のものを以下に一首づつ取り出してみる。 若き日はそれとは知らず過ぎにしをほら君のすぐそばにも匂ふ 岡井 隆 *「君のすぐそばにも…

君かへす朝

短歌は一人称の文芸といわれることから、作品の主人公は作者自身ということを暗黙裡に前提としているところがある。しかし、ここに落とし穴がある。短歌のリアリティを論じる時、作品の内容が作者に実際に起きた事態のごとく解釈する危険性である。 君かへす…

花時雨

今日も北原隆太郎著『父・白秋と私』を持ち歩いて続きを読んでいる。白秋に対する批判的な評論や鑑賞には、やっきになって反論しているように感じられる。旧制富山高校、東大美学科、京大哲学科という学歴を持ち、坐禅修業に励んだ知識人としては、感情的に…

ぼたん園

鎌倉鶴ヶ丘八幡宮のぼたん園に行った。桜が散った後の牡丹。二百品種二千本がある。日中国交回復を記念して、中国より贈られた姚黄、これは千年の歳月を株分けされながら咲きつづけてきたという牡丹、また約四百年前趙家の祖趙瑞波が改良した趙粉という牡丹…

白秋の禅的理解

『父・白秋と私』を読むと、白秋の創作態度がよくわかる。長男北原隆太郎が身近に見た父の姿であり、母の日記で補強されてもいる。 “父は即興詩人型でなく、リルケと同様、時熟型の詩人で、素材としての生活体験と、その芸術的表現との間には、数年間の隔た…

『父・白秋と私』

この本を通勤の車中でも読んでいる。これは筆者の北原隆太郎が本の構成まで考えて書き下ろしたものでなく、彼の死後、奥さんの東代さんが、隆太郎が折にふれて書いたり話したりした原稿を編集してなった本のため、時間軸の筋がとおっていない。特定の時期に…

佐助稲荷

先日インターネットで注文しておいた本『父・白秋と私』が昨日届いていたので、それをバッグに入れて鎌倉に出かけた。佐助稲荷から裏山に登り源氏山公園に出て、さらに浄智寺への山道をたどり円覚寺に至る。昨日ふれた地名の関係上、鎌倉の町名の由緒が気に…

春の夢

「歌壇」五月号に特集「短歌と地名―地名という磁場」がのっている。大変面白い。中でも小池光の論文は秀逸。いつものことながら文章の切れの良さと読み易さ、そしてなにより独自の視点に感心する。 腰を抱く続きを見たし春の夢 回遊の鯉の背に降るさくらかな…

俳人協会賞

「俳句研究」五月号に、第四十五回俳人協会賞受賞者の記念作品が載っている。正賞は大串章、鍵和田秞子の二名、新人賞は高田正子、鴇田智哉、中村与謝男の三名に与えられた。ここでは、鍵和田秞子と鴇田智哉の作品をいくつか取り上げてみたい。*鍵和田秞子…

下賀茂神社

今日は日曜日だが、朝から雨。昼になっても雨。こんな日はやはり昼間からではあるが、焼酎オンザロックに限る。焼するめげそ、寿司、豚肉キムチうどんなどを肴に飲み始めた。で、今日の話題は昨日の京都うた紀行の続きと相成る。 上賀茂神社を見た後、バスで…

上賀茂神社

上賀茂神社へは、地下鉄烏丸線の北山駅で下車し、上賀茂神社行きのバスに乗った。北山駅から歩いてゆけるものと思っていたがとんでもない。京都は学生時代、隅々まで歩いて知っているつもりであったが、上賀茂にも下賀茂にも行っていなかった。 上賀茂神社は…

勝龍寺城

出張先は、京都の長岡京にある。今回初めて知ったのだが、勝龍寺の町は、細川ガラシャが住んだ場所であった。つまり夫の細川忠興の居城・勝龍寺城があった土地であり、近年発掘が進み、本丸が復元されている。小畑川の岸辺の道は桜と菜の花の盛りであった。 …

レトリック5

今日から二泊三日で京都に出張する。といっても業務は金曜日の一日だけ。土曜日は、わが歌紀行に当てる。今日木曜日の夕方から新幹線の京都に向かうので、この日記は、出張から帰ってからの土曜日の午後に埋めている。京都のことは、明日以降に順に書いてい…

石楠花

蜘蛛とぶや富士のふもとの冬支度 凍らざる富士の湧水水かけ菜 「荒獅子」の名札かかれる椿かな 若葉萌ゆ楠の根方の手玉石 登山者が幸せ祈りつるしけり鈴鳴りひびく富士の山頂 つゆしげき裾野の原に生きつげるミヤマシジミのむらさきの羽 湖に影を落として聳…

ポストモダン的修辞2

昨日の続き。原文は、すでに廃刊になった『短歌朝日』平成十三年、五・六月号にある。*直喩 = 意表をついた媒体の違和感を和らげ、意思疎通を助ける 修辞。 水牢のごとき世界に浸(つか)れども死に灼かるれば 悲しかるらむ 左手で書きしづめゐる詩の底へた…

ポストモダン的修辞1

中村幸一という人が、岡井隆の短歌について、レトリックの立場から分析している。*語尾脱落 = 音の美しさを追及して語末音を落とす修辞法 詩歌などもはや救抜(きゅうばつ)につながらぬからき地上をひとり 行くわれは 「ぬか」は「ぬ か」とも」ぬか か」の…

短歌人・東京歌会

午後から上野の文化会館で歌会。いつものことながら、不忍池の周りを歩いて時間をつぶす。 参道や屋台の奥の花見席 参道に屋台ひしめく花吹雪 鮎あぶり烏賊げそ揚げて肉を焼く花の終りの神社参道 やきとりもお好み焼きも食ひ飽きて花散りのこる公園に寝る 頭…

花まつり

今日四月八日は仏生会、花まつりである。いつもの散策ルートにある寺々では、小さな花御堂を飾って、釈迦の生誕を祝っている。極楽寺でも、長谷寺でも光則寺でもそして大仏の高徳院でも。すばらしかったのは、長谷寺の境内の桜の散るさまと光則寺の銘木・海…

レトリック4

売り言葉に買い言葉、という言い方がある。対比という修辞法である。ふたつの観念のあいだに対照関係を設けて、両者がたがいに引き立てあうようにすることばのあや。ことわざや格言に対比表現が多い。口あたりのいいわりには、心に印象を残すことがない、と…

レトリック3

諷喩は、ひとつの隠喩から次々に同系列の隠喩をくり出し、たとえで話を進める表現形式。おなじ系列に属する隠喩を連結して編成した言述、と定義される。和歌に例をとれば、小野小町の次の有名な歌がそうである。 わびぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水…

レトリック2

黙説あるいは中断と呼ばれる技法がある。ものを言いさすこと。何かを言いかけて、途中でやめてしまう、そしてあとは言わなくてもわかってもらえるだろう・・・と、いちおう期待することある、と佐藤信夫の著書にある。 和歌、短歌でも言いさしの形は出てくる…

レトリック1

以前読んだときにはエラク難しい、退屈な本だと思っていたが、今回読み返してみて名著ではないか、と感じている。それは、講談社学術文庫、佐藤信夫著の『レトリック感覚』および『レトリック認識』の二冊である。今後しばらく喩の技法について考えていきた…

千代田のさくらまつり

四月になったので靖国神社社頭の掲示板の内容が替わった。明治二十五年の明治天皇御製「花」は次のような作品である。 ちはやふる 神の齋垣の 花さきて まうづる人も おほき春かな 遺言は、昭和十九年二月、マーシャル群島で散った海軍兵曹長二十七歳のもの…

短歌人・横浜歌会

午後から戸塚駅近くの横浜女性フォーラムで、定例の短歌人・横浜歌会がある。それまでの時間を茅ヶ崎経由宮山にいって、相模川縁の櫻を見る。花曇で寒く強風、夕方から雨がひどくなった。 相模川ボートのりばの花見かな 川下へ川鵜とび立つぬばたまの黒き羽…

花狂い

小田原一夜城の桜も満開であろうとJR早川駅からタクシーに乗り、石垣山に駆けつけたが閑散としている。早川駅に降りた時、人出がないので変だと思ったが、案の定、櫻は花の盛りを過ぎていた。昨年と同じ過ちをしでかしてしまった。石垣山から双眼鏡で長興…