天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

自然への挽歌(7/9)

うすれゆく季節感 
 平安朝時代から比べると、明治以降、季語の種類が圧倒的に増えた。例えばラグビー、受難節。季語登録が間に合わないくらいである。現代歳時記の季語に登録されていない季節の表現はいくらでもある。
 ノースリーブの肩より垂らすさみしさよ南天に赤き月を吐きたり
                       梅内美華子
 シヴァ神の狂気を愛すまたたけるブーゲンビリアの影に坐った 
                        江戸 雪
 映画やビデオなど映像技術の発達で、疑似体験ができることも現代の特徴。交通機関の普及により、短時間に季節の違う地域を行き来できることで、日本の季節を意識する場合もある。
 現代は季語が季節感と合わない。バイオテクノロジーのおかげでトマト、苺、薔薇などハウス栽培の野菜や果物や花は、季節を問わず店先や食卓にでている。動物園、水族館などのように、獣、魚などが年中見られる施設があちこちの都市にある。外来語や学術用語の浸透に伴い、季語がカタカナ表記されることも増えた。
エアコン、街灯の普及など住環境の近代化により季節感を失った季語もある。例えば裸、月あるいは月光、(室内の)プール、香水。また、容易には体験出来ない、見られなくなった事象もある。例えば、曲水、野火。こうした季語に季節感の表出を頼らざるを得ない現状は、日本の短詩形文学が仮想現実に深入りしている証左といえよう。
 短歌の中に季語が入っていてもレトリックによって季節感が弱まってしまう場合がいくらでも出てくる。夢や思い出の中の季語、絵葉書や絵画の中の季語、外国語への言替え、会話・引用語の中の季語、部分に適用された季語、希望の中の季語、かな文字表記の季語、音楽の中の季語、疑問形の文章に出る季語 等々。例歌を三首あげよう。
 「睡蓮」を描きし西洋花を組むひかりはほそきしらほねならむ
                       米川千嘉子
 鶏頭のまぼろし見ゆと告ぐるとき静かなる火をわれは継ぐべし
                        坂井修一
 ぼくんちに言語警察がやってくるポンポンダリアって言ったばっかりに
                        加藤治郎
 一首の内に複数の季語が同居している歌は季節感をそこねる。現代短歌の場合、季節感が無いものが目立つ。
 ネオ・ナチの青年たちは寒いかな鰻の肝を串にさしつつ 
                        加藤治郎
 白鳥とくちなは愛しあふこゑを聴きたるのちにみづは滅びむ 
                        水原紫苑
 特に強調しておきたいことだが、季語を比喩表現の中で使っている歌では季節感が薄れる。現代短歌では、比喩表現の中に季語が多く現れる。作者並びに読者は、季節をどう感じてほしいかあるいは鑑賞するか、が課題である。比喩表現における季語は、短歌における季節の仮想現実を高度に押し進めたものではないか。

 新古今集には、季語の比喩表現がある。花を雪と見なす、逆に雪を花と見なすという類である。しかし比喩表現の豊かさや頻度を比較すれば、現代短歌が格段に上である。
 今夜わたしは桔梗の声で話すからキャッチホンは無視してください
                        江戸 雪
 新月の匂いをさせて離婚したばかりの登喜(とき)ちゃんバーにあらわる 
                        千葉 聡
 樋口一葉またの名を夏 まつすぐに草矢飛ぶごと金借りにゆく 
                        川野里子
 かなしみのかたつむり一つ胸にゐて眠りても雨めざめても雨

                       小島ゆかり

 

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