腰の据え方
「短歌」八月号の特集「発想を一首にしあげるポイント」に、タメになることが出ている。鴨長明の『無名抄』から材をとって、柏崎驍二がまとめている。
「腰句手文字事」: 腰句=歌の三句目
三句末が「て」で終る歌は、上句から下句への移り方を
緩慢なものにしがちなので難しく、注意を要する。
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
素性法師
み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人の訪れもせず
壬生忠岑
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
与謝野晶子
石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼
北原白秋
物の葉やあそぶ蜆蝶はすずしくてみなあはれなり風に逸れゆく
北原白秋
向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ
前田夕暮
古今集の素性法師、壬生忠岑の歌と与謝野晶子以下四首の歌と、それらのつくりを比較してみれば、三句目がいずれも「て」で終っているが、顕著な違いがある。それは、後者の歌では四句目に切れが入っている点である。韻律面で前者よりも後者は、きりっと締まっているのだ。ここに「腰句手文字事」のひとつの解決策がある。
「歌半臂句事」: 和歌・連歌で、無用のものにみえながら
(=半臂)、一首の表現効果を高める役割を果た
している句。三句目に枕詞を置いた歌。
たらちねはかかれとてしもむば玉の我黒髪を撫でずやありけん
僧正遍昭
桜花咲きにけらしなあしひきの山の峡より見ゆる白雪
紀 貫之
わが待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人は訪れもせず
凡河内躬恒
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る
小野小町
不尽の山れいろうとしてひさかたの天の一方におはしけるかも
北原白秋
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
斉藤茂吉
最後の茂吉の歌では、枕詞が四句目にあるが、他は三句目に使われている。いずれにせよ下句への続き具合でゆとりを生み、一首の品格ともなる、というのである。
柏崎驍二は、これに加えて、三句目に副詞を置いても同じ効果が得られる、と指摘している。
春の鳥な啼きそ啼きそあかあかと外の面の草に日の入る夕
北原白秋
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
斉藤茂吉