天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

歌枕と季語

 「俳壇」五月号で、「新緑の京都、奈良を詠む」という特集をしている。芭蕉高浜虚子、細見綾子、水原秋桜子などの例句を紹介している。また、現代俳人の数人が俳句とエッセイを寄せている。
以下、感想を少し書いておく。

      菊の香やならには古き仏達      芭蕉
      日本に帰りて京の初夏の庭      虚子
      女身仏に春剥落のつづきをり     綾子
      蟇鳴いて唐招提寺春いづこ      秋桜

 虚子の句以外は、名句として知られている例である。
ところで、よく知られた地名=歌枕を、季語と一緒に一句に入れては、両者がぶつかり合って一句を壊してしまうことがあるので、よほど注意しなければならない、ということを長谷川櫂が指摘している(『一億人の俳句入門』)。このことは、古く芭蕉が言及していた。「名所のみ雑の句にもありたし。季を取り合わせ、歌枕を用ゆる、十七文字にはいささか志述べがたし。」
 吟行では、名所旧跡を訪ねて句作することが多いので、大いに心すべき教えである。「俳壇」五月号の特集では、誰もこのことに触れていないのが、もの足りない。


[追伸]長谷川櫂(『一億人の俳句入門』)の説明をもう少し。
  芭蕉は、歌枕を詠む句には季語は不要と考えた。歌枕が空間上に
  散らばっているのに対して、季語は四季という時間上に散らばっ
  ている。次元が異なるだけで、歌枕も季語も想像力の結晶である
  点はどちらも同じである。歌枕も季語と同じように現実に対する
  規範として働く。