天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

猿島

渡船から見る

 この島の名の由来は、日蓮が房州から鎌倉へ渡る途中嵐に遭い、進む方向が分からなくなった時、白猿が舟の舳先にたち、この島へ案内したという伝説による。ちなみに日蓮が遭難しかけた時、白猿が現れて助けた話は他にもある。
 猿島には縄文時代から人の痕跡がある。江戸幕府は大輪戸、亥の崎、卯の崎の3箇所に台場を築造して大筒15挺を配備した。ただ、安政地震により壊滅的被害を受けたため台場を放棄した。明治10年になって海軍省の所管になり、あらためて砲台の築造に着手、明治17年には本格的な洋式要塞として完成した。昭和16年になって、海軍が高射砲陣地として5座を配置した。昭和20年の終戦とともに、高射砲は爆破、カノン砲は切断された。昭和22年以降、猿島への渡船が開通。猿島横須賀市に属している。
 この時期、猿島では、フィッシング大会が開かれる。平日でも数人の釣り人が磯に立って竿を振っている。


      要塞の跡やおしろい白く咲く


  木隠れに砲台ありし猿島にウミウの白き糞のコロニー
  異国船打ち払はむと江戸幕府大砲三門を卯の崎に置く
  明治にはカノン砲据ゑ昭和には高射砲据う猿島要塞
  砲台と弾薬庫との連絡に土管使へる伝声管あり
  高射砲五門を据ゑて撃ちにけり終戦までの猿島要塞
  閉ざされし砲台地下の弾薬庫赤きレンガの壁のみ見えて
  フランス式レンガ積なる要塞のトンネルの中暗き電灯
  円形の砲座が五つ残りたり帝都の空を守らむとせし
  要塞の跡の石垣くづほれて空に鳶舞うふ秋の猿島
  より大き魚釣らむと週日もルアーをたぐる猿島の海
  ありし日の栄光今に伝へたり軍艦行進曲と三笠は