天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と詞書とのコラボ(1)

アンモナイト(地球博物館にて)

 詞書とは、短歌のはじめに付記して、短歌そのものの理解を助けたり、短歌の詩的効果を高めたりする言葉だが、岡井隆は詞書に俳句、短歌、詩、箴言 などを用いて両者の相乗効果を出す試みを精力的に続けている。
 つい最近の例をあげよう。「歌壇」8月号に岡井隆の「夏越なごめど」と題する短歌一連が載っている。俳諧や哲学者の命題を詞書としている。


      市中は物のにほひや夏の月  (凡兆)
  はいつて来る奴の死角につねに立つ訓練がつづく午後いつぱいを


 凡兆の発句は、分かり易い。夏の夕方、市中のそこここで夕食の支度やそのための食材を売る匂いがしていて、空には月が浮んでいる。では、短歌の意味はどうか?
多分部屋か町の一角に入ってくる敵の目にはつかない場所(死角)に、常に立つような訓練を午後一杯している、と詠んでいる。
 これら二つが合わさるとどういう情景を想像するか?戦後なおテロ活動が絶えないアフガニスタンイラクの都市を思う。夏の月が出ている空の下、バザールでは食べ物の匂いが漂ってくる。だが、いつ敵の標的にされるか分からない。警備の立場にせよ、逆にテロリストの立場にせよ、敵の位置を想定して敵から見えない死角に立つことが戦闘に勝つために必須なのだ。