白秋の『雲母集』(10)
白秋と茂吉
白秋と茂吉は相互に影響し合った。二人とも『梁塵秘抄』に学んだ点も共通している。
茂吉の『赤光』発表当時、アララギ内部からは『赤光』所収の歌のかなりの部分は、杢太郎や白秋の模倣または影響であることを指弾する声が起こっていた。白秋の『桐の花』所収の歌は、明治四十一年〜明治四十五年間に作られ発表されたものなので、歌集としての『桐の花』が刊行される前からよく知られていたらしい。両者の類似例をあげると、
草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
『桐の花』
くれなゐの鉛筆きりてたまゆらは慎ましきかなわれの
こころの 『赤光』
ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる
庭さき 『桐の花』
めんどり鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研(かみそりとぎ)は
過ぎ行きにけり 『赤光』
また茂吉の『あらたま』大正三年作の「三崎行」六首には、次のような歌がある。
ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる
かうかうと西吹きあげて海雀あなたふと空に澄みゐてと飛ばず
白秋が三崎に滞在していた時期、茂吉との間で書簡のやりとりはあったので、興味から三崎に遊んだのであろうか。茂吉夫妻に古泉千樫が加わっていた。内にこもるような茂吉固有の韻律ながら、『雲母集』の影響が濃厚である。しかし茂吉が門弟を指導する時には、『桐の花』は日本が自慢していいと思ふ。『雲母集』で飛躍したが、『雲母集』にはくづがある。白秋の『桐の花』、長塚節の歌集、石川啄木の歌集を読め、と話したという。
なお右上の写真は、新潮社版「新潮日本文学アルバム」から撮って合成したもの。今回をもって『雲母集』の解析を終える。長い間のお付き合い、ありがとうございました。