短歌の理解
2009年の「短歌人」夏季集会で、「短歌の言葉」と題した講演を聴いた。そこで彼の短歌感を知ることができた。近代以降の短歌、特に現代短歌の特徴を、彼独自に要約したものであった。ユニークなまとめ方であり説得力があった。また、改作(改悪)例を示すことで、原作の特徴・歌のポイントを明確にする方法も面白かった。なお、この内容は、彼の評論『短歌の友人』の後に繋がるもののようである。『短歌の友人』も大変分かりやすい本である。
短歌に通じていない人たちが好む短歌は、若山牧水や石川啄木の望郷短歌である。情景やこめられた思いを読み取って感動するのである。しかし、専門歌人が評価する優れた短歌とは、次のような特徴を持つ。
(1)短歌で良いとされる言葉は、一回性の言葉であり、社会的には
負の価値、あるいはどうでもよいことであることが多い。
社会的に理屈の通る言葉、引き継がれる言葉(万人に流通する
言葉)、社会的貢献につながる言葉、予定調和の言葉
(理屈に合っている言葉)を使ってはダメである。これらは、
短歌の価値を阻害するのである。
一回だけの生を詠う(生の一回性を保証する言葉を使う)
ことが、近代以降短歌のモチーフであった。
おのずからあくびをしたるあとなればうるみに充てり
ひのくれがたは 村木道彦
いま我を知る人は無し夜半起きてこむらがへりに
呻きゐるわれ 高野公彦
鯛焼きの縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり
高野公彦
灯の下に消しゴムのかすを集めつつ冬の雷短きを聞く
河野裕子
目薬は赤い目薬が効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす
河野裕子
はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは
東 直子
(2)一期一会感、ある日ある時感 を持った歌 が現代短歌の
主流である。社会的規範への逆行、社会へのレジスタンス、
反常識。
ラーユがない! ギョーザをショーユだけで食うオリン
ピックなんざ知ったこっちゃない 森本 平
雨だらか迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で
来やがって 盛田志保子
(3)5W1Hを外した歌が良い。
手をひいて登る階段なかばにて抱き上げたり夏雲の下
加藤治郎
単三の電池をつめて聴きゐたり海ほろぶとき陸も亡びむ
岡井 隆
あそこから冬の林に見しものを誰にともなく語り続けぬ
岡井 隆
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売って
くらしています 東 直子
穂村 弘の結論
以上のようにすれば良い短歌になるという行き方がもはやシステムになってしまっている。これでよいのか? 別の行き方はないのか?
以下に補足を。
[参考1]近代以降の歌人で、穂村 弘の話にもっとも該当するのが、
斉藤茂吉である。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
かへりこし家にあかつきのちやぶ台に火焔の香する沢庵を
食む
あしびきの山のはざまに自らはあかつき起の痰をさびしむ
青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓」
バケツより雑巾しぼる音ききてそれより後の五分あまりの
夢
冬眠より醒めし蛙が残雪のうへにのぼりて体を平ぶ
あけがらすこゑたてて鳴くそのこゑはわれの枕のひだり
がはにて
[参考2]一般の人達に愛唱されている歌は多いが、
例えば次のような例。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
佐佐木信綱
白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ
若山牧水
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
若山牧水
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかり
けり 若山牧水
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
石川啄木
函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
石川啄木