天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(2)―

花神社より

     古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉


[子規]善悪の外に独立し、是非の間を離れたるを以て善悪の標準をあてはめ難きものなり。この句は俳諧の歴史上最必要なるものに相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるものなり。
[虚子]そうたいしたいい句とも考えられない。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞こえるというだけの句である。閑寂趣味とそのままの叙写という事が、この句によって初めて体現されたという事が何よりも芭蕉の満足することであって、自分もこの句を以って初めて悟りを開いたように考えたのであろう。歴史的の価値を認むべきは否定することの出来ないことである。
[楸邨]表現は淡々として飾らず、蛙が飛び込んだ水音がひろがるように、心にひろがる閑寂の余響を追って、どこまでも深まってゆくという求心的態度が見られる。表に波立とうとする声を抑えて、静かに内部の響きに合わせた無言の表現といえよう。私は芭蕉の最優秀の句とはみないが、やはり代表的な句の一つに数えたい。
山本健吉俳句は言葉の自然な流れを切断するところに様式を獲得した認識の詩で、切れることが俳句の大前提。従って切字の考察は季語のそれに優先すべきである。この点において、芭蕉の「古池や」の句は、俳句の様式と機能を充足し、俳諧の「無心」の系譜を成就している。
長谷川櫂この句は「どこからともなく聞こえてくる蛙が飛び込む水の音を聞いているうちに心の中に古池の面影が浮かび上がった」といっているのである。ここで切れ字の「や」は現実の世界で起きている「蛙飛び込む水の音」とは切り離された心の中に現実ならざる古池を浮かび上がらせる働きをしている。この心の中の古池こそが閑寂境にほかならない。


 子規、虚子、楸邨の三者は、評価にとまどっているといえる。山本健吉に至って、俳句の基本構造を、「古池や」の句で改めて確認している。そして、長谷川櫂が、先評者達の成し得なかった、芭蕉開眼の句の理由を、初めて明解に分析した。切字の効用を説いている。