天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(4)―

塚本邦雄著『夕暮の諧調』

  うちしめりあやめぞかをる時鳥鳴くや五月の雨の夕暮
                       藤原良経『新古今集


塚本邦雄意味の上では二句で切れ、表記を厳密にするならここで一字あけ、「時鳥」以下の三、四、五句を続けるべき、即ち卒然と読み下せば、必ず時鳥で切ってしまう懼れのあるこの奇妙で秀抜なコンポジションに、先人は殆ど言及していない。そして再び卒然と読めば、「うちしめり」に「雨」、「あやめ」に「時鳥」に「五月」という、くどいまでの念押しと季の重なりは、嘔吐を催すばかりだ。その嘔吐にたえて、「うちしめりあやめぞかをる」と「時鳥鳴くや五月の雨の夕暮」の遠近法の、重なりあいつつ遠ざかる世界の、視覚と聴覚に思い及ぶがよい。この緑色の濃淡による、煙霧の中の小宇宙が、決して嘱目の忠実な写生などではなくて、良経自身の魂であることを悟るだろう。 (『夕暮の諧調』「紅葉非在」)


 塚本は、この良経の歌に見られる「奇妙で秀抜なコンポジション」に、前衛短歌の方法論を発見したのだ。古今集万葉集が称揚され手本とされた短歌史の上で、新古今集を最も評価し、そこに自身の短歌の拠り所を見出した現代歌人は、塚本邦雄をおいて他にない。温故知新の典型である。