天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(10)―

山本健吉著「現代秀句」

     一月の川一月の谷の中   飯田龍太『春の道』


飯田龍太](自句自解より)幼時から馴染んだ川(狐川)に対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感した。それ以外に作者としては説明しようがない句だ。
山本健吉この句は、中村苑子高柳重信のような、前衛的抽象派の俳人の共鳴を獲る性質がある。苑子は「一月」という季語から、心象的に「日本」を感じ取り、川端康成が「日本の山河を魂として生きてゆきたい」と言った言葉を連想している。龍太の句に、日本の美の伝統を継ぐ者としての使命の自覚が、切ないまでに見えているという。野澤節子、鷲谷七菜子のような具象派の俊秀が、血肉が感じられない、骨だけの感じとか、摑むのならはらわたを摑んで欲しいとか言い合って、その佳さを摑みそこなっている。
私は別に、波郷の「琅玕(らうかん)や一月の沼横たはり」を思い出した。「一月の川」「一月の谷」という措辞には、波郷の「一月の沼」が暗黙のうちに翳を落してはいないかと憶測するのである。
[川名 大]動詞や形容詞など説明的、修飾的な語句を一切排除して、名詞と助詞だけによって俳句形式をぎりぎりまで純化し、絞り込んだような句だ。
「一」という文字が細い渓流をイメージする働きも忘れてはならない。この句は、言葉だけで自立した普遍的リアリティを持っている。いわば言葉「一月の谷の中」を言葉「一月の川」が流れているのである。読み手のこころの中を一月の清冽な渓流が流れているのである。加藤郁乎の句「一満月一韃靼の一楕円」と比較すると、切れによるイメージの飛躍や喚起される世界はまるで違う。
長谷川櫂古今の名句多しといえども、この句ほど大胆な切れ、斬新な「間」はさすがにみたことがない。まず清冽な川が現れ、次いで深く切り立った谷が現れる。まるでばさりばさりと宙を切って落したかのようではないか。その川と谷が、新しい年の静寂そのものの大空間に浮んでいる。実際に詠んだのは、飯田家の裏の小さな谷と小さな川だったのだが、それが大渓谷を流れ落ちる川にみえるのは、この句の大空間、すなわちいきいきとした「間」の働きによる。
[酒井佐忠]わずか十字、「一月」の反復、助詞「の」の効果、そして見事に収まった句跨り。これ以上そぎ落とすことのできない省略の中で、川と谷が拮抗する村落の景をむしろ広やかに表現する。伝統俳句に類型のない新しさだった。


 石田波郷「琅玕(らうかん)や一月の沼横たはり」や加藤郁乎「一満月一韃靼の一楕円」と比較して、言葉や意味の単純さの違いがもっと強調されてよい。即ち、次のように。

     名詞の種類         動詞の数       助詞の種類
波郷句    3(琅玕、一月、沼)    1(横たわり)    2(や、の)
郁乎句    4(一、満月、韃靼、楕円) 0          1(の)
龍太句    4(一月、川、谷、中)   0          1(の)

龍太句の単純さが際立っていること、しかも情景のリアルさ雄渾さにおいて他を凌いでいることが分る。