鑑賞の文学 ―詩 篇(3)―
岡井隆の詩集『注解する者』(思潮社、2009年7月刊)を読み終わった。注解する者とは岡井隆自身のことである。詞書やあとがきが短歌と一体化して詩集になった経緯が、小池の書評からよく分かるので、それをここで紹介しよう。
岡井が短歌に盛んに詞書をつけ始めたのは、歌集『マニエリスムの旅』からである。その時、小池光は次のように評していた。
「表現の自在さ。歌が歌として純粋な至上のものになりつつあるということ。歌を濁すものはことごとく歌の外へ追いやられた。歌は単純に平明になり、明澄なよいものになった。すみずみまで韻律はみなぎって、ゆたかに、十全に歌は響りひびいている。あきらかに主役は騒ぎやまぬ定型の格子の側にある。主題や意味はあくまで定型の格子を有音をもって満たすための、無意味の方へ近寄った、いわばエーテルのごときものとして導入される。定型をはみだし圧するものは、どんどん歌の外へ自由にはみ出させればよい。いわゆる岡井式のことばがきも、そういう態度のあらわれとして見ることができる。」
そして今回の詩集について、小池は以下のように書く。
「・・・ごく初期の歌集から、そのあとがきは歌集本体よりずっと楽しげだ。歌集のあとがきという形式の散文、ひいては散文詩を作っている。詩人の顔はすでに出発のときから十二分にちらちらとしているのである。本当は詩人になりたかった歌人はやがてホントウに詩集を編み、昨年度刊行の『注解する者』は高見順賞を受けた。この出来事は第二芸術論の最終決着を意味するものである。なぜならば歌人ともあろうものが詩を書いてしまい、その詩に対して最高の栄誉をほかならぬ詩人たちが贈ったのであるから。」
詩集のみごとな帯文が、この本の性格をよく物語っている。すなわち、
「あらゆる書物に偏在する注解の虫たち、ページの余白を自在に
飛び交う疑い鳥たち。それらが岡井隆の脳で蠕動し、けたたましく
啼く───「注解詩」という来るべき詩歌。」