天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

絶筆三句―蕪村と子規―

蕪村と子規

 偶然にもと言うべきか、さもありなんと言うべきか、蕪村と子規の辞世三句が作られた情況は、実によく似ている。
 蕪村の臨終に際して、辞世の三句は弟子の几薫が看取った。子規の絶筆三句は弟子の碧梧東と妹・律が支えて書かれた。両者を見比べて見よう。


 蕪村の絶筆三句の様子を几薫の「夜半翁終焉記」から引く。
   廿四日の夜は病体いと静かに、言語も常にかはらず。やをら
   月渓をちかづけて、病中の吟あり。いそぎ筆とるべしと聞こ
   ゆるにぞ、やがて筆硯料紙やうのものとり出る間も心あは
   ただしく、吟声を窺ふに、
     冬鶯むかし王維が垣根哉
     うぐひすや何ごそつかす藪の霜
   ときこえつつ猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
     しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
   こは初春の題を置くべしとぞ。此三句を生涯語の限りとし、
   睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。


 次に子規の辞世三句執筆の様子を、弟子の河東碧梧東の記録「君が絶筆」から部分的に引いてみる。
   ・・・病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、
   いきなり中央へ、
     糸瓜咲て
   とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書き
   にくさうにあつたので、ここで墨をついで又筆を渡すと、こんど
   糸瓜咲てより少し下げて
     痰のつまりし
   まで又一息に書けた。・・・・・同じ位の高さに
     仏かな
   と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。・・・・
     水の
   と書いて
     取らざりき
   は右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、・・・・。


 こうして書かれた三句は、周知の
     糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
     痰一斗糸瓜の水も間にあはず
     をととひのへちまの水も取らざりき
であった。


 子規は『俳人蕪村』を書いて、蕪村の俳句を、積極的美、客観的美、人事的美、理想的美、複雑的美、精細的美、用語、句法、句調、文法、材料、縁語及譬喩、時代、履歴性行等 の観点から分析し、蕪村を称揚した。これにより蕪村は、現代の世に広く知られることとなった。