天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(26)―

五柳書院

  政宗の追腹(おひはら)きりし侍(さむらひ)に少年(せうねん)
  らしきものは居らじか         斎藤茂吉『石泉』


塚本邦雄 「少年(せうねん)らしきものは居らじか」とは、一体いかなる「真意」を秘めてゐるのか。已むを得ず腹を切らされたとて、それは武士としての本分、以て瞑すべきであらうが、中には縁に繋がるゆゑに死を迫られた少年もゐたのではあるまいか、それならいたましい次第だ、などといふ推察を交へた感懐ではなかつたか。更に一歩進めるなら、追腹と言えば生前、生死を共にと誓つた股肱の臣下、そして次には言はずと知れた、戦国の武将には不可欠の寵童とか小姓が考えられる。たとへ最愛の主君であつたとしても、うら若い命を、花ならば莟の人生を、むざと摘み取られるのは無残なことだといふ、条理を尽くした憐憫の情であらうか。「らしきもの」「居らじか」この二つの言葉は、二つの推論のいづれをも暗示しながら、核心は摑まさない。そこがまた面白い。 (1981年2月文芸春秋社


[小池 光]「少年らしきものは居らじか」とただ推量形で終わっているが、居たはずである、居てほしいといった一種の願望が揺れているように思われる。その願望を願望としてあらわに述べない。そこにひそやかな断念を感じていいだろう。一連十三首の内、この歌以外は、色彩のごく抑制された世界を淡々と叙景している。この一首だけ異彩を放って、エロスの香りがただよう。これによって静寂感はいっそう深まり、また死がはらむ究極のなまめかしさがあざやかに縁どられた。連作の構成の上からも注意していい。 (『茂吉を読む』 初出は「短歌人」1998年2月号)


* 掲出の茂吉の歌は、武士の時代に常識であった男色・衆道を理解していないと、生々しさが伝わってこない。その解説は省略するが、伊達正宗の寵童に、只野作十郎という小姓がいた。茂吉の歌の「少年らしきもの」とは、作十郎を指すのであろう。正宗の死因は食道癌だったといい、満68歳での往生。座敷で亡くなった。主君が病死であろうと亡くなれば、近侍が切腹して後を追うという風習が残っていた。特に寵童はその筆頭であった。松島の瑞巌寺には、正宗と追腹した家臣十五名の位牌が祀られている。その中に作十郎がいたのかどうかは、私は詳細を調べていないので判らない。茂吉も知らなかったので、「居らじか」としたと思われる。
なお、伊達三代目君主より追腹は禁止された。