天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌は五句三十一音

角川学芸出版

 三枝昂之編著『今さら聞けない 短歌のツボ100』(角川学芸出版)には、短歌に関わる紛らわしい言葉使いや作歌、鑑賞についての基本的な事柄が、100項目について解説されている。35名による分担執筆である。その中に「短歌は五句三十一文字、五句三十一音、どちらを使うべき?」という項目があり、島田修三氏が解説している。結論を要約すると


 短歌に他の韻文系の表現と一線を画する鮮明なアイデンティティーがあるとすれば、それは五句三十一音が奏でる韻律以外には考えられない。文字ではなく、音声が短歌のアイデンティティーを支える。その背景は、古代国家が日本語を表記しうる文字を獲得するまで、歌は口誦表現以外のなにものでもなかった、ということ。


 では短歌を「三十一文字(みそひともじ)」と言い始めたのは、いつ頃からか? この辺のことは島田氏の解説にない。よく知られているのは、古今和歌集仮名序にある次の一文。
「ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」
またその後に出た源氏物語行幸)に「みそひともじの中にこともじは少なくそへたる」とあることが、広辞苑を見ると分る。
矛盾するではないか?そうではない。平安期に、和歌はひらがなで表記されることが多かった。更に遡れば、平仮名や片仮名の元になった万葉仮名に行きつく。これは基本的に一字一音節の文字である。(注:一字が二音、三音の場合もある。)近代になって、短歌が記載表現であることを意識し始めてから、五句三十一文字という言い方が不自然になったのである。従って短歌の本質から、「短歌は五句三十一音」と言うことにすれば、間違うことはない。