天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(34)―

『定家明月記私抄』

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
                  藤原定家



 新古今和歌集の三夕のひとつである。他の二首は、


  さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の
  秋の夕暮             寂連


  心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮
                   西行


 定家の歌と他の二首との違いはどこにあるか? といえば、寂連や西行が上句で自分の感情をストレートに表現しているのに対して、定家の歌は、自分の感情を表さず客観描写に徹している点であろう。強いて言えば、「なかりけり」という詠嘆調の箇所だけであるが、塚本邦雄はここを「氷の刃さながらに置いた」と解釈して、詠嘆とは考えない。
実はこの歌、客観写生でさえなかった。定家の頭の中で創造されたイメージなのである。一首の背後に、『源氏物語』(明石の巻)があるからである。定家の文芸に対する考え方がそこにあった。これは、現代前衛短歌の塚本邦雄に至ってようやく理解されたものであった。江戸時代の本居宣長でさえ、次のような批評を下す在り様で、定家の先進性・良さを全く理解していなかった。
「そもそも浦の苫屋の秋の夕は、花も紅葉もなかるべきは、もとよりの事なれば、今さら、なかりけりと嘆ずべきにはあらざるや」と、言わずもがなの内容の歌だと断じている。これは素人の鑑賞である。現代になって、定家の歌の先進性が、例えば次のように明快に解説された。
「花と紅葉は、たとえ「なかりけり」と否定消去をされていても、一度言い出されたものは、存在するものであり、花も紅葉もの、陽光のあたたかみのある残像は、否定消去をされていればこそ、なおさらに荒涼として何もない浦の苫屋という基調低音をもつ海景に重なって、二重像を形成する。」(堀田義衛『定家明月記私抄』)
 時代が進むにつれて分析や鑑賞の方法が進化するし価値感も変化するので、一概に良し悪しを決めつけるわけにもいかない。例えば、定家の「見渡せば」の歌、後鳥羽院の意向で、新古今集に入っていたのだが、二十年後の隠岐本においては削除してしまった。これは定家に限ったことでなく、西行にしても初めの九十四首から隠岐本で十三首も削除された。
実は、現代の歌会において出る批評にも、本居宣長風の批評は絶えない。つまり、作者の思い・感情を述べるべき、という考え方が無くならない。純客観的詠い方をすると、当たり前じゃないか、作者は何を言いたいのか不明、という批判が出て来るのである。