天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

高遠(1)

高遠城址公園にて

 全国的に知られた桜の名所・高遠城址公園までは、JR伊那市駅からバスで行けるのだが、間隔が空いていたので、タクシーに乗った。公園のグランドゲートまで乗って4500円かかった。
 高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、南北朝のころから支族の高遠氏が治めていた。天文年間になると武田信玄が侵略して奪い取った。城の拡張改築は、山本勘助が担当したという。江戸時代の正徳4年1月12日(1714年2月26日)に起きた絵島生島事件で、流刑となった絵島がこの城のはずれに囲われたことは、よく知られている。昭和四十二年に絵島囲み屋敷として復元されている。屋敷とは名ばかりで、八畳の絵島の部屋と十畳の番人詰所の他に台所、湯殿がある程度に過ぎない。絵島は、六十一歳で亡くなるまで二十八年間をこの地で過ごした。魚類を断つ一汁一菜、一日二食の毎日であったという。門口に、有島武郎の弟で画家の有島生馬の次の和歌が碑になって立っている。


  物語まぼろしなりしわが絵島墓よやかたよ今うつつな里


斎藤茂吉もこの地を訪ねて、次の歌を詠んだらしい(どの歌集に載っているか未確認)。


  あはれなる流されひとの手弱女は媼となりてここに果てにし


高遠城址の桜は、明治8年以降に植え続けられたタカトオコヒガンザクラで、歴史はさほど古くない。1500本ほどが樹林をなしている。本丸跡からは中央アルプスの山々が、また白山橋からは南アルプス仙丈ケ岳が見えた。


     生徒らが庭を掃きゐる桜かな
     高遠の桜に仙丈ケ岳かな
     花無情絵島囲ひの小屋の庭


  いつもより七日は早き満開の桜見に来し高遠城
  河東碧梧桐の碑の俳句読む花満開の高遠城
  まなかひは仙丈ケ岳振り向けば木曽駒ケ岳高遠の湖
  高遠の桜の下に古りて立つ絵島囲ひをつくづくと見き
  絵島はや流刑となりし高遠のつひの住処の二十八年
  間遠なるバスの間隔待ち兼ねてタクシー探すお城下通り
  さり気なくお城下通りの辺に置かる窪田親子の署名入り歌碑
  いづこより来しと聞かるるタクシーに話す今年の桜と蕎麦と
  花を見て朝に夕べにあやぶめり北朝鮮のミサイル発射
  中国の制裁やはり疑はし北朝鮮の暴挙は止まず
  日陰なる特急あずさの車窓には雪輝ける八ヶ岳の峯


[注]絵島生島事件
大奥御年寄の絵島が奥女中達と共に、月光院の名代として
前将軍・家宣の墓参りに出かけた。その帰りに生島新五郎
歌舞伎見物をして、江戸城大奥の門限に遅れたため、罪に問
われる事件が発生した。死刑になった者もいたが、絵島は
月光院の嘆願により流刑で高遠に流された。役者の生島
は三宅島への遠島に処せられた。綱紀粛正の見せしめであった。