天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

地震を詠む

長谷川櫂の震災句集

 古語では「なゐ」と言った。古い用例としては、日本書記の歌謡「臣の子の八符の柴垣下動(とよ)み地震(なゐ)が揺り来ば破(や)れむ柴垣」がある。ところが、以後の古歌には、勅撰集・私撰集をはじめ国歌大観所収の私家集にも全く出てこないという。
もちろん古典和歌の時代にも地震津波の大災害はあった。例えば、貞観地震は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日)に、陸奥国東方沖の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震とそれに伴う津波である。しかし和歌には詠まれていない。ただ、明治時代の歴史地理学者吉田東伍による考証では、清原元輔(908〜990)の次の歌は貞観地震の大津波が背景にあるとする。

  契りきなかたみに袖をぬらしつつ末の松山波越さじとは
                古来風体抄・清原元輔

即ち、「末の松山」とは、宮城県多賀城市八幡の沙丘にある「末の松山」であり、「波越さじ」は、津波がこの末の松山を越えそうで越えなかった状況を示すものとしている。清原元輔貞観地震の四十年後に和歌に反映したことになる。その後の和歌では、末の松山と波の関係が歌枕として定着し、多くの歌に詠まれた。
ともかく地震が短歌に詠まれるようになったのは、明治以降の近代短歌からということになる。周知のように関東大震災の時(大正12年9月1日)には、多くの歌人が作品にした。以後、現代では阪神淡路大震災東日本大震災に際しては、膨大な数の短歌が詠まれた。
 注意すべきは、これら三大震災の際に作られた短歌や俳句に、直に「地震」という言葉を使うことは、それほど多くないということ。従って表題や詞書がないと、地震の時の作品か否か不明になるのである。
以下には、地震のことと判る北原白秋の俳句二句と短歌三首をあげておこう。小田原の住いで関東大震災に遭った。


        木兎の家刻々に傾く 二句
     朝咲いて晝間の芙蓉に震絶えず
     日は閑に震後の芙蓉なほ紅し


  この大地震(おほなゐ)避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに
  任せてぞ居る


  篁(たかむら)に牝牛(めうし)草食む音きけばさだかに地震
  (なゐ)ははてにけらしも


  牝牛立つ孟宗やぶの日のひかりかすけき地震はまだつづくらし


 ちなみに現代でも古語の「なゐ」を使用することは珍しくない。短詩形では音数や韻律が重要なためである。
 俳人長谷川櫂は、東日本大震災を俳句と短歌に詠んだ。『震災句集』と『震災歌集』である。北原白秋よりも本格的な取り組みであった。