鑑賞の文学 ―俳句篇(35)―
夏目漱石が鎌倉を訪れたのは、明治二十七年十二月二十三日から翌二十八年一月七日までの一回目と明治三十年夏に材木座に一カ月ほど滞在した二回目であろう。そうした折々に詠んだと思われる句を次にあげる。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
仏性は白き桔梗にこそあらめ
山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
其許(そこもと)は案山子に似たる和尚かな
来て見れば長谷は秋風ばかり也
浜に住んで朝貌小さきうらみ哉
虫売の秋をさまざまに鳴かせけり
冷かな鐘をつきけり円覚寺
半月や松の間より光妙寺
「鐘撞けば」の句を子規は『承露盤』に記載している。また松山市で発行されていた『海南新聞』(明治28年9月6日)に載った。その二ヶ月後の後の11月8日にに子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を『海南新聞』に載せた。それぞれの句が作られた背景を推理してみよう。漱石が子規の句会に出始めたのは、子規が松山の漱石の下宿先(愚陀仏庵)に同居してからである。一階に住んだ子規は、そこで頻繁に句会を開いた。二階に住む漱石は一人静かに学問をする気分にもなれず、句会に参加する。「鐘撞けば」の句は、そうした折に提出したのであろう。
円覚寺で坐禅した時の思い出から作ったものと考えられる。それを子規が評価して『承露盤』に記入し、さらに『海南新聞』に載せてもらったのである。
子規は10月19日に帰京すべく松山を発つ。その途次、漱石から借りた旅費で奈良を巡った。そして「柿くへば」の句を作った。
さてこの二句、表現の構造がそっくりである。子規の句が一躍有名になったが、漱石は自分の句が先行したのだ、といった物欲しげな主張はいっさいしていない。子規に添削してもらっている立場からは、なるほどとり合わせでこうも違ってくるか、と漱石は感心したであろう。両者の違いを次にあげておく。
漱石の「鐘撞けば」句(聖のみの取合せ): 謹厳・実直・ことわり
子規の「柿くへば」句(聖俗の取合せ): 意外性・親しみ・ゆとり・なつかしさ
なお「仏性は」以降の作品は、二回目の鎌倉訪問時の作である。
[注]『承露盤』: 明治28年から33年までの間に、子規の元に他者から送られてきた
俳句を選抜して、子規が書き留めておいた草稿。この中から新聞
に掲載した。