鑑賞の文学 ―俳句篇(37)―
漱石が子規に送って添削を乞うた句稿について調べているうちに、漱石ほどの長期間ではないが、子規が句稿の面倒を見た佐藤紅緑という俳人がいることを知った。作詞家で詩人のサトウハチロー、作家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇の父親である。「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受けた。例えば、旧制第一高等学校の寮歌に矢野勘治作詩の有名な「嗚呼玉杯」があるが、これを昭和2年に少年小説「あゝ玉杯に花うけて」として「少年倶楽部」に連載し好評を博した。
佐藤紅緑は明治26年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京、翌年日本新聞社に入る。社員だった正岡子規の勧めで俳句を始めたのである。明治29年から31年までの3年間、子規、鳴雪、碧梧桐、虚子らが紅緑の句稿に評点をつけた。以下に◎のついた作品をいくつかあげる。
永き日や岩に佛を彫む人
とうとうと岩うつ波や霧の中
ほそほそと岩間を出る秋の水
行春の薬をすてる女かな
早蕨の握るものなくのびにけり
凧の尾のぞろりと下りぬ苗代田
白牡丹あたりに草もなかりけり
晝暗き若葉の奥の瀧の音
かりそめに菖蒲かけたり鎧櫃
蚊柱の中にほとけの眼かな
雨の蚊のひそむ芭蕉の葉裏かな
現代から見ると高得点の出る句は少ない。「永き日」「行春の」「凧の尾の」「蚊柱の」くらいか。ただ当時、新派俳句を推進していた子規グループの目には、好もしく見えたのである。