天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学―俳句編(42)―

筑摩書店

 先日発売されたばかりの長谷川櫂芭蕉の風雅』を読んだ。この本は、芭蕉が語ったという「(俳諧の)言語は、虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事は難し。」の意味を、芭蕉の関係した作品を通して解説する。芭蕉の風雅についての長谷川櫂による解説書である。
要点を以下に引用する。
 「俳諧は風雅の世界(虚)に心を置いて、現実の世界(実)
  に遊ぶべきである。  その逆に現実の世界から抜け出さ
  ないままで風雅に遊ぶのは難しい。」
 「「虚に居て実をおこなふ」とは、風雅の世界から現実の世界を眺め、
  そこに題材を見つけ、言葉で描くこと。」
 「「実に居て虚に遊ぶ」とは、現実の世界から抜け出さないまま、風雅の
  世界に遊ぶことである。」


『おくのほそ道』にフィクションが入っていることは、随行した曽良の『曾良旅日記』と比較すれば容易に判明する。この日記から『おくのほそ道』本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識が推察される。このことは、芭蕉研究においては、周知のことであって、長谷川櫂がこの本で具体的に分りやすく解説している。『おくのほそ道』について、要点を以下に抜書しておく。

 「『おくのほそ道』は、芭蕉曽良が風雅の世界(虚)にいながら、
  東北・北陸という現実の世界(実)を通過してゆく、まさに「虚に
  居て実をおこなふ」物語なのだ。」
 「次々に現れては消えてゆく現実の世界の人物や事物は芭蕉にとって
  あくまで文学の素材にすぎない。ときには素材を作り変えることも
  あれば、さらに現実にはなかったことをあったこととして書き加える
  こともある。」
 「芭蕉が『おくのほそ道』を書くという作業は歌仙を巻く、さらには
  歌仙を捌くという作業に酷似している。・・・この二つがなぜ似て
  いるかといえば、どちらも「虚に居て実をおこなふ」ことにほかなら
  ないからだろう。」
 「芭蕉を生涯悩ませた日常的な死や別れにどう向かえばいいかという
  大問題を大きな主題としている。じっさいの旅に心の旅を重ねてつづった、
  それが『おくのほそ道』なのだ。」


 なおこの本を読むと仲間内で歌仙を巻いてみたくなる。