歌の原郷(1)
先月の12月16、17日でとり上げた小池光さんの『石川啄木の百首』の続きである。「歌の原郷」とは、小池さんが、解説として巻末につけた題名である。解説の終りの部分に、小池さんはつぎのように書いている。
「(啄木の歌は)短歌という制限された文学の伝統的一形式でなく、
むきだしの「歌」そのものといっていい。近代の無名無数の人々の
こころに、そっとその失楽失意への共感と慰めをあたえる近代の
「歌」を、その原郷里として啄木は作ってみせたのである。」
以下で、「歌の原郷」を技術的な観点で解釈してみたい。現代の前衛短歌を先導した塚本邦雄さへも顔色を失うほどの革新的な試みを啄木は成し遂げていたのである。啄木は、和歌、短歌のまさに根本(原郷)を考えさせるテーマを実作で示したのであった。それは啄木にとって、自身の言葉では、
「勝手気儘に短歌といふ一つの詩形を虐使する」事に外ならなかったのだが。
12月17日のブログで上げた課題に戻って考えたい。啄木は何故一首を三行分ち書きにしたのか?二行でも四行でも五行でもあるいは混在でも無かった。それは後回しにして、容易に想像できることは、啄木は短歌の韻律(五七五七七)を外した短歌(三十一文字・音のみ守る)を作って、新しい短歌の詩情・味わいを出してみたかったのだ。
詳細に入る前に、短歌がシンプルな等時的拍音形式の日本語であること、拍とは発音する時の最小のまとまりであること、短歌を拍でいえば、5拍・7拍・5拍・7拍・7拍で計31拍となることなどを思い出しておく。例: 「あしびきの」は「あ・し・び・き・の」で5拍。
ここからが少し私流の考え方になるが、句読点や一文字分の空白また改行もそれぞれ無音の一拍分とみなしておく。
次の啄木の三行分ち書きの歌を、朗読のための一行書きにしてみよう。
珍しく、今日(けふ)は、
議会を罵(ののし)りつつ涙出(い)でたり。
うれしと思ふ。
短歌韻律では、「|」を句の切れ目の印として、次のように朗読する。
珍しく|今日は議会を|罵りつつ|涙出でたり|うれしと思ふ
啄木の意図する韻律では、「■」を無音の一拍として、次のように朗読する。
珍しく■今日は■■議会を罵りつつ涙出でたり■■うれしと思ふ■
これでは散文ではないか?