天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

砥上ヶ原(とがみがはら)

熊の森権現の西行歌碑

 たまたまテレビ(J:COM)のチャンネルを廻していたら、江ノ電沿線の駅周辺の歴史を解説する番組に出会った。その中に藤沢駅の次の石上駅が、昔の砥上ヶ原に属しており、西行鴨長明が詠んだ歌も紹介されていた。
2012年7月31日のブログ「湘南の西行歌碑(3)」で、辻堂駅近くの熊の森権現と呼ばれた場所のマンションの入口に西行の歌碑があり、「柴松のくずのしげみにつまこめてとなみが原に牡鹿鳴くなり」という歌が、変体仮名を使って歌が彫られていることを書いた。ちなみに「湘南の西行歌碑(2)」で、茅ヶ崎文化資料館の門柱になった歌碑では「芝まとふ葛のしげみに妻こめて 砥上ヶ原に牡鹿鳴くなり」となっていることを紹介した。これは以下の『西行物語』のものと同じである。
 念の為にWebで調べたことを次に要約しておく。


  芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に牡鹿鳴くな里
                    西行西行物語』
西行は、鎌倉に行く途中で砥上が原を通過したようだ(文治2年(1186年))。熊の森権現の歌と比べると初句に違いがある。


  八松の八千代の影におもなれてとがみが原に色も替らし
                   鴨長明鴨長明集』


  浦近き砥上ヶ原に駒止めて固瀬の川の潮干をぞ待
                   鴨長明鴨長明集』
鴨長明は鎌倉で将軍源実朝と会見する前にこれらの歌を詠んだとされる(建暦元年(1211年))。


  立帰る名残ハ春に結びけん砥上が原の葛の冬枯
                  冷泉為相『為相百首』
*これは冷泉為相が砥上ヶ原に遊んだ折の歌。

 冷泉為相について補足しておくと、冷泉為相の母は阿仏尼で、鎌倉に4年間住んで亡くなったようだ。為相も晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で没した。立派な墓が浄光明寺の裏山にある。(2011年11月22日「 月影ケ谷」の項参照。)