古典短歌の前衛―酒井佑子論(2/11)
■特徴ある技法について
一首についてのコメントは*印の部分に示す。
□破調
まず正調の短歌について定義しておく。それは短歌の五七五七七
の音節と言葉の意味の文節とが一致する調べの歌である。
三歌集から正調の歌をそれぞれ二首を以下にあげる。
槻大木並み立つ街のひとところはろばろと来て人と籠りぬ
『地上』
万象はしづかに冬に入りゆくと父なき夜の門をとざしぬ
一谷の墓みな古りてすさまじく銭苔生ひぬただ蝉の声
『流連』
ある夜半は羨しみ思ふ川原にみひらきて死にゐたりし猫を
日おもてを日かげを歩みぬばたまの青毛の馬は息匂ひけり
『矩形の空』
泡立ててからだ擦りつつほとほとに飽けりからだは鍋より大き
これに対して破調とは、各句における字余り、字足らず、語割れなどにより五七五七七の短歌の律を崩す調べである。破調を意識的にとりあげたのは、近代短歌のアララギ派においてであり、わけても土屋文明からであろう。子規や茂吉の歌の調べに慣れている人が、初めて文明の歌を読むと、短歌律の崩れに先ず戸惑い、なんと読みにくい歌かと感じるはずである。破調への取り組みは、従来の短歌の朗誦性に揺さぶりをかける革新の企てであった。それは現代の前衛短歌において、とりわけ塚本邦雄によって初句七音の新しい律の短歌が提示されることで、一層明確になった。
足羽(あすは)の山は吾知るほつつじの下に本読む君を見るごとし
土屋文明『青南集』
*この歌は初句「足羽(あすは)の」四音の字足らず、結句「君を見るごとし」
八音の字余り、の破調である。
何に殉ぜむジュネ、ネロ、ロルカ、カリギュラと秋風潜る耳より鼻へ
塚本邦雄『青き菊の主題』
*この歌は七七五七七の律で、その上人名の並びが尻取り式韻律になっている。
土屋文明の破調は、酒井佑子が直接指示した五味保義に引き継がれた。そして酒井佑子は、極端と言えるほどに多用し、自身の歌の特徴としてしまった。その典型が、第三句字余りに現れている。試みに五味保義の処女歌集『清峡』全645を調べてみると、その割合は6%である。酒井の場合は、先に見たように桁違いに多い。三歌集からそれぞれ二首例歌をあげよう。
かにかくに逢はざりしかな緑垂るる草の鉢いだき帰り来りぬ
『地上』
息深く眠れる男あはれいかなる残年あらむ吾ら二人に
*第三句が七音になるとさすがに戸惑う。
海に死にて帰らざりける人ありけり来りぬかづく四十二年のち
『流連』
門灯の仄けきあかり及ぶところ蟇のはらわた赤き浄し
*この歌の結句は六音で字足らず。
わにざめとわにの異同を思ひをれば雲はわにざめの口をひらきぬ
『矩形の空』
西王母とふ春の菓子買ひて帰るただその菓子をいだきて帰る
*第三句は短歌律の腰であるだけに、字余りになると一瞬の滞りにより、
屈折感・饒舌感が生じる。
その他の破調で、読んでいてすぐに気になるのは、結句字足らずであろう。これについは、前衛歌人の塚本邦雄がその牽引力、喪失感の効果を明らかに活用した。
夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
桃山産婦人科メスの音さやぎ除外例ある生のはじめ
酒井佑子の例の場合は、『矩形の空』において突然のように頻度が高くなっている。この時期に塚本の影響が現れたと見るべきか。四例をあげる。
とある角を曲がりて四十(しじふ)日咲ける百日紅なほ赤し赤し
おとなしくなりたる癌に言問ひて手術待つ日日(ひび)のただ無為
淋巴浮腫は蜂窩織炎(ほうくわしきえん)に通ずとぞ知らざりし
ことを知りて帰る
いづこの果てに往きて死にけむ外猫の白と茶蓑(ちやみの)を
見ずて一夏(いちげ)