天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

古典短歌の前衛―酒井佑子論(6/11)

本阿弥書店

□口語歌
 例は極めて少ないが、土屋文明にも酒井佑子にも口語歌はある。
  日向(ひうが)の寒蘭も見て行きたいが花より先に人間がゐる
                   土屋文明『続青南集』
*初句四音の字足らずである。
 酒井佑子の場合は最近の歌集『矩形の空』に次の三例がある。
  大耳狐(フエネツク)の赤ちやんといふを見に来たが悲しい
  親の大耳狐ばかり


  あの男はどこへ行つたらう真夜中に枕裏返し探してゐる
  歳の夜の雪の彼方にドラム回りせつせつとシャツを乾かしてゐる

□その他の表現
 岡野弘彦主宰の「人」短歌会が解散した後、佐々木靖子は酒井佑子と現在の
名前に変えて、「短歌人」に入会し、小池 光に師事するようになる。小池
光から学んだことの一つに、彼が最も得意とするユーモア表現がある。小池
は、斎藤茂吉のおおげさな表現を応用した。それは副詞や漢字の使い方に顕著
に現れる。その例を次にいくつかあげよう。
  岩稜にかすかに生(は)える青草を略奪すればひとたび芳(かを)る
                         『草の庭』
  春の夜のすさびに来たるキッチンにわれ塩を舐む即興的に
                         『草の庭』
*初句で優雅に詠いだしておきながら、二句以下で俗な話題に転じて笑いを
 誘う。雅と俗の落差。


  電気ゴタツの赤色輻射の中にあるとはに二本の足を悲しむ
                      『時のめぐりに』
  敷物のうへに落ちたる墨汁の乾坤一滴はみるみる染みつ
                      『時のめぐりに』
*同音の別文字に転化。


  キオスクで売つてゐるなり茹卵(ゆでたまご)突発的に買ふ人のため
                         『山鳩集』


酒井佑子の場合、以下のような例がある。すべて歌集『矩形の空』から。
  午後二時の風呂場に顔を洗ひをりまこと洗ひにくき凹凸物
  (おふとつぶつ)顔を
*顔を「凹凸物」としたところが意表をつく。言われてみればその通りで
 笑える。


  くるぶしから先の裸足(らそく)が遠くにありふくふくと腫れて
  痛風の足   
痛風にかかった足は、自分のものと思えないような感覚の時があるのだろ
 う。


  仰むけに瞑(ねむ)れる顔の輪郭より下顎骨(かがくこつ)いま
  落ちむとぞ見る
*大きく口を開けて眠っている顔の状況を描写しているのだが、下句がなんと
 も大げさで思わず大丈夫か? と心配してしまう面白さ。


  たちまちに醜形容語十あまり思ひつき昼の鏡中にをり
*鏡に映る自分の姿から醜いところをあげつらうと、言葉にすれば十あまりも
 出て来ると言う。「醜形容語十あまり」が大げさで愉快。


  電話通じたるところ万博の堵列(とれつ)にてもののあはれ
  きはまりにけり
*電話した相手は万博の催し物会場に並んでいたのだろうか。話の内容が不明
 だが、電話から聞えてくる周囲のもの音が、下句の大げさな感情表現になっ
 たか。

酒井佑子は前衛歌人塚本邦雄からも多くのことを吸収したようだ。分りやすい一例が『矩形の空』にある。
  鉄骨少女萱草少女みなづきのさやさやをとめさやぎてやまず
この歌における「・・少女」「・・をとめ」などの造語は、塚本邦雄が多用した表現である。それも元をたどれば『梁塵秘抄』の中の「松が崎なる好色男(すきをとこ)」にゆきつく。塚本の嗜好は、雉子哭男(きぎしをとこ)、麻疹童子(はしかどうじ)、錐揉少女(きりもみをとめ)、麦(むぎ)少女(をとめ)白芥子(しらけし)少女(をとめ)、尺取少女(しやくとりをとめ)、石見少女(いはみをとめ) など奇妙な魅力を持つキャラクターを次々に造り出した。
  そのめぐりたちまち蒼み敗戦のラガー身をもむ雉子哭男(きぎしをとこ)
                        『青き菊の主題』
  往かず還らぬわが日常におとづれて春の若狭の麻疹童子(はしかどうじ)よ
                           『森曜集』
  海彦は水葱少女(なぎをとめ)得て霜月のうらうらととほざかりし白帆
                            『歌人
  ラガー駈け去るその瞬間の風圧にひらとあやふし白(しら)芥子(けし)
  少女(をとめ)                    『豹変』