天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

古典短歌の前衛―酒井佑子論(11/11)

酒井さんの愛猫

 ちなみに酒井佑子は、小池 光と同様に猫好きのようであり、
猫に関する歌が多い。『地上』で四首、『流連』で九首
『矩形の空』では42首と、歌集の発行が重なるにつれ多くなる。
数多い小池の作品(『山鳩集』までに111首)と比べてみたくなる。
先ず小池 光の作品から五首
  鳥打帽子かむるするどき口髭はよき猫くればたちまち
  攫(さら)ふ              『草の庭』


  まへ足を舐めて顔ふく二度三度 立ち去りたればあと
  かたもなし               『静物


  ざぶとんに眠る嚢(ふくろ)を猫ともいふ老荘とほく笑へるこゑす
                     『滴滴集』
  植木鉢の腹にひたひを押しつけて煩悩散らす猫のねむりは
                  『時のめぐりに』
  鼻先に尻つぽの先を寄せ眠る猫のフォルムのああ大団円
                     『山鳩集』
次に酒井佑子の作品を五首
  猫といふ生(しやう)あるものにいまだ馴れず鼻よせて口の匂ひ嗅ぎみる
                      『地上』
  凍てついたシーツを愛し極月の夜々(よひよひ)吾とびろうどの猫
                      『流連』
  ひきあけに踏む床のうへ脚もぎて猫が展示せる大ごきかぶり
                    『矩形の空』
  卯の花にひと日雨降るいだかれて不妊手術に行きけり猫は
                    『矩形の空』
  いちばん良いセーターの上に猫は寝てその安逸のかがやくばかり
                    『矩形の空』
こう並べてみると個性の違いがよく分る。


■おわりに
酒井佑子の短歌を、あえて古典短歌と呼びたい。その理由は、見て来たように文語文法、旧仮名遣い、本格的歌語使用 などによる。近現代の題材を除けば、古典の世界に回帰する。但し、そこと大きく異なる点は、大幅な破調の導入に依る韻律の変革である。その象徴が第三句の字余りである。その歌の比率が、最初に表でみたように極めて高い。そのほかの句でも字余りは多い。その表からすぐに分るように正調の歌が、世の傾向と逆になっている。
従来の正調短歌の朗詠性への反旗であり、マンネリ打破を打ち出した行き方である。第三句字余りを典型とする歌の印象は、ある時は屈折の抒情になり、ある時は饒舌の抒情になる。それは女性の感性からくる必然的欲求による。初句7音の字余りが男性の感性によることと同じ理由である。
実は酒井佑子の行き方とは正反対に、第三句を省略して喪失感、ペーソス、笑いをもたらした男性歌人に高瀬一誌がいる。初めて彼の作品に接したわが初心の頃は、大いに戸惑い岡野弘彦の作品と比較して、これは短歌と言えるのか、と書いたことがある。本文では具体的に触れ得なかったが、酒井佑子作品の前衛性を考える上で、高瀬一誌も大いに参考になる。
以上のように、古典文学の和歌・短歌の王道を歩み、現代にあってなお古典の領域を開拓する酒井佑子の姿勢には、圧倒させられる。詠まれているテーマは、普遍的な「生老病死」であり、読者に深い感動を与える。間違いなく酒井佑子は古典短歌の一つの到達点を示したと言えよう。「古典短歌の前衛」と題する由縁である。