俳句と短歌の交響(3/12)
寺山修司の場合、自作俳句から短歌に改作した例として、高校時代の俳句と歌集『田園に死す』の歌との関係を見てみよう。
旅の鶴鏡台売れば空のこる
売郷奴いぼとり地獄横抱きに
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
青麦を大いなる歩で測りつつ他人の故郷売る男あり
いずれも短歌の方が具体的で深みが増している。俳句の方は詰め込み過ぎ。
心臓の汽笛まつすぐ北望し
鉛筆で指す海青し卒業歌
吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
二句の俳句から言葉の意味を抽出し短歌一首にまとめたもの。短歌が優れているので俳句は不要になる。
かくれんぼ三つかぞえて冬となる
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
短歌は、俳句の内容を物語として抒情ゆたかに展開した形。
車輪繕う地のたんぽぽに頬つけて
村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ
短歌の内容の後に俳句の内容がくる形だが、両者合せて一つの物語になるので、並べて示すことは有意義。
以上三人の文人の例から短歌と俳句の性格の違いがよく分かる。