天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句と短歌の交響(5/12)

斎藤茂吉

 斎藤茂吉は、芭蕉からも多くを学んだ。山口誓子の分析によると、芭蕉の影響を受けた茂吉は、芭蕉の「寂静」を受け継いだ。「寂」を、或る時は「さびし」と読み、或る時は「しづか」と読んだ。芭蕉句を本歌にしたと思われる短歌を、次にとりあげよう。
  馬をさへながむる雪の朝哉       芭蕉
  しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり
                     茂吉
雪と馬が共通の事物だが、芭蕉句は雪の朝に、茂吉歌では馬の眼に、それぞれ焦点が当たっている。
  昼見れば首筋赤きほたる哉       芭蕉
  蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし
                     茂吉
歌では、上句で情景が追加されているだけで、焦点は句と同じ。
  病雁の夜さむに落て旅ねかな      芭蕉
  よひよひの露ひえまさるこの原に病雁おちてしばしだにゐよ
                     茂吉
本歌取りに関して、太田水穂との論争になった有名歌である。芭蕉句とは別に、楊誠斎の漢詩に倣ったという説もある。塚本邦雄は、この論争には加担せず、句と歌に使われている「落ちて」を問題視した。「病雁」が「落ちて」となると、死を連想し、旅寝では済まなくなる、というのだ。其角編「枯尾華」にあるように「おりて」がよい、とする。
  きりぎりす忘音に啼く火燵哉      芭蕉
  きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声の遠ざかり行く
                     茂吉
芭蕉句には俳諧味があるが、茂吉歌では、その味の中心である炬燵を除いて情景を詳細に詠って、寂しさ・はかなさを強調した。
  衰や歯に喰あてし海苔の砂       芭蕉
  海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯の砂のかなしさ
                     茂吉
句では、「衰や」とした嘆きを、歌では、結句で「かなしさ」と直に情感を表現した。また場所を特定した。
なお、茂吉の有名歌
  あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
                     茂吉
は、西行の歌
  としたけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさ夜の中山
                     西行
と、芭蕉
  此の道や行く人なしに秋の暮      芭蕉
とを引き継いだものと理解されている。