天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

コミック短歌(1/12)

河出書房新社刊

まえがき
近代以降、短歌を革新しようとする意欲は持続している。韻律を保ちつつ表記に工夫をこらす方法は、明治期の石川啄木土岐善麿の三行書き、また土岐善麿のローマ字表記などあり、昭和期には釈迢空による句読点の導入や多行書きがあった。そして思い切った韻律の変革に手をつけたのが、戦後の塚本邦雄であった。
塚本による文語短歌における語割れ・句跨りの濫用が、後の世代における口語短歌のひろがりに拍車をかけた、あるいは理論的支柱になった。口語短歌にとって語割れ・句跨りの許容は、まさに天からの恵みであった。前衛短歌は、〈私性〉さえも変革した。古来、文芸作品には虚構がつきもののはずなのに、短歌に限ってはそれが許容されていなかった。
前衛短歌は虚構を復活させたのである。口語短歌の革新は穂村弘たちの世代が推進した。本稿では穂村弘の作品を中心に、革新の内容を見ていく。韻律面では、塚本邦雄と対比して分析する。穂村たちは、句読点、スペース、記号、文字の回転 などを多用したが、そこには聴覚的抒情(言語音声)から視覚的抒情(記号イメージ)への展開があった。これも前衛短歌の継承といえる。
穂村弘の出現は、石田比呂志に「穂村のような短歌作りが認められるなら、茂吉の墓の前で腹かっさばいて殉死するしかない。」と言わしめたほど衝撃的であった。大方が口語調である穂村の短歌を分析すれば、口語短歌の功罪も分るであろう。なお穂村の歌の性格を一言で評して、コミック短歌と呼びたい。