天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

コミック短歌(8/12)

小学館より

■全体が散文になってしまう場合
はじめに塚本の例から。
  殺青、六月二十九日は瀧廉太郎忌、それより政田岑生忌
「殺青、六月↑二十九日は↑瀧廉太↑郎忌、それより↑政田岑生忌」このように人名の瀧廉太郎を割るのは無理。三句四句を「瀧廉太郎忌、↑それより」と自然に切るしかない。従って全体は、八七八四七となる。特に三句増音、四句減音と高度なテクニックを要する禁制度大な作りになっている。
塚本の歌集『約翰傳偽書(ヨハネでんぎしよ)』には、唯一、次の口語短歌がある。
  エウリピデスと言つても論文のテーマ。今夜はソクラテスと寝てます
だが、これは短歌にはなっていない散文である。上句は、「エウリピデスと↑言つても↑論文のテーマ。」で二句減音三句増音。禁制度大。下句は。「今夜はソクラテス↑と寝てます」で大きな破調。これを「今夜はソクラ↑テスと寝てます」のように人名を割って無理に七七にするのは異形であり不可。
穂村の例は多いが、歌集『手紙魔まみ・夏の引越し』から二首をあげておく。
  美容師の森ひまわりを花に譬えると、ひまわり(譬えてねーよ)
「美容師の↑森ひまわりを↑花に譬↑えると、ひまわり↑(譬えてねーよ)」 と強引に五七五七七の句分けができるが、譬えるが語幹割れになり、無理筋。自然な句切りは、「美容師の森↑ひまわりを↑花に譬えると、↑ひまわり↑(譬えてねーよ)」だが、これでは、二句減音、三句増音、四句減音 と全く短歌の韻律から外れてしまう。
  じつは、このあいだ、朝 なんでもありません
読点に従えば、初句二句は、三五あるいは四六。三句四句をスペースで拍を数える構造の実験作だが、もはや短歌の形態をなしていない。当世はやりのツイッターである。