天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

機会詩〈短歌〉ノート (2/6)

ハレー彗星

明治の短歌革新運動に至るまでの和歌の時代は、長く題詠主体であった。時局を和歌に読み込むなど危険を伴いタブーに属した。また優美な感覚にも反した。では、全く時局は歌に詠まれなかったかというと、そうではない。政治に対する批判は、狂歌に詠まれた。狂歌とは、諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌である。公共の場所、特に人の集まりやすい辻や河原などに立札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開する場合、これを特に落首といった。江戸時代には、天明狂歌ブームが起きた。次の例はよく知られている。
 白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
機会詩の性格を分かりやすくするために、歌を詠むきっかけとなった事件・事象の際立った例をとりあげてみよう。先ず自然現象として、彗星や流星を見た場合。
 ためらはず遠天に入れと彗星の白きひかりに酒たてまつる       斉藤茂吉
 百武彗星近づく刻を予告してめぐる宇宙の空の静まり        岡部桂一郎
 少女歌手影長く曳き飛び下りぬハレー彗星近づく火曜        佐佐木幸綱
 こがらしは流星まじへ芭蕉葉の影くらきうへどつと越えたり      小中英之
 寒夜空ぼおつと燃えて過ぎたるは獅子座流星群または性愛      小島ゆかり
天文学者の間ではよく知られているが、藤原定家は『明月記』に彗星のことを書き残した。しかし和歌には詠まなかった。さて茂吉が見た彗星となると、明治四三年(一九一0年)五月二0日のハレー彗星である。初版『赤光』に「田螺と彗星」と題する十一首があり、うち四首が彗星を詠んでいる。
星の固有名詞や当時の世相が入っていると時代の推測が可能になる。百武彗星(ひゃくたけすいせい)は一九九六年一月に百武裕司氏が発見した彗星で、同年三月には地球に
最も近い距離を通過した。佐佐木作品は、昭和六一年(一九八六年)に現れたハレー彗星で、少女歌手は岡田有希子のこと。国会で問題になるくらい後追い自殺が増えた。ただ、小中作品のように時代と無関係に広く読者の共感をよぶ秀歌がある。小島作品は、子宮に降り注ぐ精子を連想させるエロス。
実はハレー彗星が、題詠の題として「アララギ」に取り上げられたことがある。本林勝夫の調査によれば、彗星の歌の初出は明治四三年三月号。歌人であり物理学者である石原純が選者となっていた課題作であった。ハレー彗星が接近したのは、明治四三年五月一九日、二0日であったので、接近の情報はそれより早く、半年くらい前には出回っていたのであろう。時事詠といえども、このように予測されている事象については、題詠になることがある。