天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

機会詩〈短歌〉ノート (5/6)

60年安保

歌を作った時点では時事詠だったものが、歌集に編集してまとめる際に題をつけることによって題詠のように見えてしまう、あるいは積極的にテーマ詠にしてしまうということも起こりうる。
時事詠の場合、対象となる事件の当事者となって歌を詠むケースと傍観者として歌を詠むケースとある。また、中途半端なケースもある。多くの学生や勤め人に当てはまる。
岡井隆を例にとってみよう。六0年安保に際して、彼はデモに打ち込むといった行動はとらず悩んだ。その状況が歌に現れている。
 旗は紅き小林なして移れども帰りてをゆかな病むものの辺に
                         岡井隆
時を経れば、どの事件と特定できなくなろうが、後世に時事詠の名吟として残る。
機会詩にとって有効な表現方法はあるのだろうか?
 たたかひは上海(しやんはい)に起り居(ゐ)たりけり鳳仙花紅(あか)く
 散りゐたりけり                斉藤茂吉


 あきらかに地球の裏の海戦をわれはたのしむ初鰹食ひ
                         小池光
 一度もまだ使いしことなき耳掻きのしろきほよほよ 海外派兵
                       佐佐木幸綱
いずれも作者の日常とのコラージュ・二物衝撃だが、対比するものによって、ニュアンスに違いが出てくる。斉藤茂吉の有名な作品は、初版『赤光』大正二年七月二三日(五首)の中にある。上句は、袁世凱に対する第二革命のことらしい。批評性は無く客観描写に徹しているが、短歌の斬新さには目を見張るものがある。小池作品は、一九八二年三月に勃発したフォークランド紛争時のもの。一般の傍観者にも当てはまる情景・心理描写であり、鋭い批判が隠れている。幸綱の歌は、憲法解釈を無理してでも海外派兵をできるようにしたい立場を諷刺している。