天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

機会詩〈短歌〉ノート (6/6)

ウサマ・ビン・ラディン(webから

時事に関する直截な表現を嫌う場合、喩法がよく用いられる。岡井隆は、安保詠を機に、暗喩やアレゴリーなど高度な喩法を駆使して前衛短歌の新たな表現の地平を切り開いた、と大辻隆弘が評価している。さらに岡井隆には、9・11テロの首謀者ウサマ・ビン・ラディンにインタビューしたヴァーチャルリアリティ形式の短歌連作「樋口一葉ウサマ・ビン・ラディンに会ひにゆく」がある。短歌版戯曲とでもいえる作品である。何故一葉にしたのか?
テロ発生当時、岡井は「『赤光』の生誕」を執筆中であり、その関連の話題として石川啄木、木下杢太郎、森鴎外樋口一葉など明治の文学者や幸徳秋水が主導したとされる大逆事件テロリズムについて書いていた。ビン・ラディンにインタビューするに一葉を配したのは、こうした背景での思いつきであったろう。
留意すべきは、機会詩も類似の事象が重なると表現に類型・共通性が現れ、題詠的様相を呈してくること。例をあげよう。
 ルーズヴェルト大統領を新しき世界の面前に撃ちのめすべし     土岐善麿
 ひげ白みまなこさびしきビン・ラディン。まだ生きてあれ。
 歳くれむとす                          岡野弘彦


 ならずものの大国の辺に寄りそへる三等国日本のつくつくほふし  馬場あき子
戦争に巻き込まれた市民としては、敵国憎しの歌が生まれる。民主主義が浸透し平和な時代になると国家権力や強権に対する批判的姿勢や弱小勢力への肩入れ・判官びいきの姿勢で歌を詠むことが多くなる。
では、こうした機会詩をどう評価したらよいであろう。近年の時事詠では、岡井隆を初めとして、詞書や連作を多用するスタイルが流行しつつある。散文などとのコラボレーションという新しい文芸、新しい機会詩を志向しているように見える。今後は、こうした作品の鑑賞を通して新たな文芸評論を展開することも可能なのではあるまいか。
短歌の評価という観点からは、時間による風化に耐えうるリアリティを有するか、という一点に絞ってみればよい。その場合、一首の周辺情報(詞書、作者名、地の文、背景説明 など)に左右されるかどうかも判断基準になる。周辺情報をそぎ落としても共感できる短歌を最上のものとしたい。
奥の細道』の紀行文(地の文)を知らなくとも、そこで詠まれたあまたの俳句が名句として後の世にまで記憶されている。
おびただしい数の制服的戦時詠を作って、戦後厳しく批判された斉藤茂吉だが、後世に残る秀歌がいくつもある。
 このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね      斉藤茂吉
国破れて山河あり、敗戦にうちひしがれて詠んだ絶唱である。