天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

河童と我鬼 (2/10)

岩波文庫から

余技は発句
芥川龍之介は、生涯におよそ千二百句を詠んでいる。唯一の句集は自死後に香典返しとして刊行された『澄江堂句集』であり、大方自選の七十七句がおさめられている。
彼の「余技は発句の外に何もない」という言葉において、「外に何もない」という言い方は、俳句に相当入れ込んでいることを感じさせる。芭蕉のように、全人生をかけて俳句の極致を求めて漂泊する生活ではない、という点から余技という言葉を使ったのであろう。門下生の小島政二郎への書簡(大七・五・十六)の中で、芥川は、「此頃高浜さんを先生にして句を作つています。点心を食ふやうな心もちでです。」と書いている。本業の小説がメインディッシュなら、余技の俳句は点心ということ。「点心」に心の余裕を感じる。
ここで芥川龍之介の俳句研鑽の経歴(「わが俳諧修業」)を要約しておこう。
 小学校時代――尋常四年の時に始めて一句「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」
 を作った。文学好きや礼儀正しい古風な倫理観は、母の姉である伯母の指導が
 大きく影響している。一生独身で通したこの伯母を、幼くして実母を失った龍之介
 は頼りにしていた。
 中学時代――「獺祭書屋俳話」「子規随筆」などを読んだが、句は殆んど作らなかった。
 高校時代、大学時代――同級生に久米正雄あり。俳号を三汀といった。三汀及びその
 仲間の俳句作品を面白がって読んだが、自分では作らなかった。
 教師時代――海軍機関学校の教官となり、高浜虚子と同じ鎌倉に住んだので、
 句作をして見る気になり、十句ばかり作って「ホトトギス」に提出したところ、
 二句採用になった。その後も引きつづき投句したら、二、三句づつ「ホトトギス
 に載った。但しその頃は既に芥川龍之介の文名が上っていたので、高浜虚子が挨拶
 代りに採用してくれたものと思っていた。
 作家時代――東京に住居を移した後は、小沢碧童の指導を受けた。その他、当時の
 俳人たちとも交流があり、芭蕉の七部集なども読んで俳句に対して幾分か悟る心地
 になった。「ホトトギス」や「海紅」に投句したり、碧梧桐、鬼城、蛇笏、天郎、
 白峯等の諸家の句にも学んだが、俳壇のことには終生無関心であり門外漢であった。
俳諧修業において、当然ながら芭蕉と門人たち以外にも、蕪村、一茶などの著作を読んでいた。俳諧において蕪村より芭蕉を高く評価したのは、両者の生き方の比較からもきていると思われる。芭蕉は、如何に生計をたてるかには頓着せず、ひたすら俳諧を極めるために歌枕の地を訪ね歩く放浪の旅を続けた。一方の蕪村、若い頃は芭蕉を慕って俳諧の道を追及したが、本業は画家であり、絵を売って、妻と娘の三人の生活を支えていた。後日南宋画では、池大雅と並び称される大家になった。