天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

河童と我鬼 (3/10)

青空文庫POD

俳句革新を先導した正岡子規や子規と親しかった夏目漱石は、芭蕉よりも蕪村を称揚した。彼等と違って、芥川龍之介は『芭蕉雑記』で次のように書いている。
芭蕉俳諧の特色の一つは目に訴える美しさと耳に訴える美しさとの
 微妙に融け合った美しさである。・・・これだけは蕪村の大手腕も畢に
 追随出来なかったらしい。」
「画趣を表現することは蕪村さえ数歩を遜らなければならぬ。」
しかし、この見方は少しゆるいように思われる。例えば、両者の有名な句を比べてみれば分る。
    五月雨をあつめて早し最上川        芭蕉
    五月雨や大河を前に家二軒         蕪村
蕪村句は、描写的でありながら物語的であり、ロマンがある。芭蕉句よりも空間が広い。後で芥川と漱石の俳句作品について述べるが、二人とも蕪村をまねた実作が多い。
蕉門の中では、内藤丈草に学ぼうとした。丈草は、蕉門十哲の一人。尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれる。生母とは早くに死別し、継母に育てられる。元禄元年(一六八八年)病弱の為致仕し、異母弟に家督を譲り、翌年芭蕉に入門。句風は軽妙洒脱。ところで、芥川の実母フクは、龍之介を産んで半年あまりで発狂し、龍之介が十歳の時衰弱死した。また彼はなにかと病気に苦しんだ。こうした境涯が丈草に似ているところから、親近感を持ったとも考えられる。
芭蕉が丈草を高く評価していたことは、次のような挿話も背景にあるだろう。即ち、芭蕉の死の一日前に、芭蕉の病床近くに集まった弟子たちが句を作り、師の芭蕉に披露した。句を読みあげたのは惟然であった。丈草の句について、芭蕉が今一度と所望して読んだのが次の句であった。
    うづくまる薬のもとの寒さかな       丈草
芭蕉は「丈草でかしたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白し」と、しは嗄れ声もて絶賛したのである。