河童と我鬼 (6/10)
漱石との類似点と相違点
夏目漱石と芥川龍之介は共に俳句を好んで作った。そこで両者の類似点と相違点を見てみたい。漱石は龍之介より二十五歳年長だが、二人とも江戸/東京の出身で、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。小説家になった。途中で学校の教師になったり新聞社に所属したりしたところまで似ている。俳句修業の面では、漱石は与謝蕪村を称揚した正岡子規に師事した。第一高等学校では同期であったが、俳句革新を先導した子規に添削を仰いだのである。一方、龍之介は、特定の俳人に長く師事することなく、様々な俳人たちと交流しながら江戸俳諧を学んだ。
前章で述べたように龍之介は、蕪村よりも芭蕉を高く評価したことが、彼の著書『芭蕉雑記』などで知られているが、実作の面では、芭蕉よりも蕪村をよく真似たことが分る。これは漱石と同断である。それを以下に具体的に見てみよう。
□漱石の場合:
二人してむすべば濁る清水哉 蕪村
二人して片足宛(づつ)の清水かな 漱石
菊作り汝は菊の奴(やつこ)かな 蕪村
菊作る奴(やつこ)がわざの接木(つぎき)哉 漱石
名のれ名のれ雨しのはらのほととぎす 蕪村
時鳥名乗れ彼山此峠(かのやまこのとうげ) 漱石
若竹や夕日の嵯峨と成にけり 蕪村
若竹の夕に入て動きけり 漱石
雪解や妹(いも)が炬燵に足袋(たび)片(かた)し 蕪村
靴(くつ)足袋(たび)のあみかけてある火鉢(ひばち)かな 漱石
漱石と蕪村には共通点が多い。漢籍に精通し漢詩を自作した。また南宋画をよくした。蕪村の俳体詩(「春風馬堤曲」)に対して、漱石は俳句的小説を試みた(『草枕』)。
□龍之介の場合:
月天心貧しき町を通りけり 蕪村
月の雁貧しき町を渡りけり 我鬼(大正六年)
凧きのふの空のありどころ 蕪村
木がらしや東京の日のありどころ 我鬼(大正六年)
牡丹切つて気のおとろひしゆふべかな 蕪村
牡丹剪つて気上る見たり夕曇 我鬼(大正八年)
ゆく春やおもたき琵琶の抱ごころ 蕪村
元日や手を洗ひをる夕ごころ 我鬼(大正十年)
うつつなき抓(つま)みごころの胡蝶哉 蕪村
初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき 我鬼(大正十二年)
龍之介は友人の紹介で漱石と面識を得て、「木曜会」に参加する。漱石が蕪村に傾倒していることは、身近に感じられたはずである。大正五年十二月に漱石が亡くなり、七年後の大正十二年十一月から龍之介は、蕪村よりも芭蕉を評価した『芭蕉雑記』を執筆する。