天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

河童と我鬼 (9/10)

龍之介の家族(webから)

                                           □補足
龍之介の妻・文のことは、エッセイや小説には出て来るが、俳句にはほとんど登場しない。また現今にいう社会詠はほとんど無い。投句していた「ホトトギス」主宰の高浜虚子が、花鳥諷詠を標榜し震災や戦争は短詩型の俳句に馴染まない、という考えであったことも影響しただろう。無季自由律の河東碧梧桐は別として。大正十二年九月一日に発生した関東大震災の情況を俳句に詠む俳人は少なかった。参考までに少数例を次にあげる。
     焼跡を行く翻(ひるが)へる干し物の白布    河東碧梧桐
     琴の音のしづかなりけり震災忌         山口青邨
     地震過ぎて夜空に躍る冬の梅         水原秋櫻子
     露径(つゆこみち)深う世を待つ弥勒尊      川端茅舎
     電線のからみし足や震災忌           京極杞陽 
芥川には、次の二句(実質一句)がある。
       大震の後、偶芝山内を過ぎ、万株の長松の恙なかりしを見る。
       宛然故人と相逢ふが如し。欣懐禁ずること能はず。
     松風をうつつに聞くよ古袷       大正十二年
       震災の後増上寺のほとりを過ぐ        
     松風をうつつに聞くよ夏帽子      大正十四年
 多くの松が無事であったことを喜んでいる。他の俳人と関心の対象が全く異なるところ
が興味深い。
当時、各地で自警団が形成された。芥川も町会(田端)の自警団に、世間体もあるので病身を押して参加した。随筆「大震雑記」やアフォリズム「或自警団員の言葉」に自警のことが言及されている。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景の中を快活に飛ぶように歩いていたという。震災後の死骸を見て歩く時、大正七年に執筆した「地獄変」の主人公・良秀の心境を現実的に味わっていたのではないか。そして次の句を作ったのではないか。
     秋風に立ちてかなしや骨の灰    大正十二年                                  詞書がないので、背景は不明。