天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

さまざまな直喩(12/13)

岩波文庫から

写生と直喩
正岡子規の『俳諧大要』「俳句の初歩」において、初心者の陥りやすい七種の邪路(理屈を含みたる句、譬喩の句、擬人法を用ゐし句、人情を現じたる句、天然の美を誇張的に形容したる句、語句の上に巧を弄する句、雑)をあげている。この内、譬喩の句については、「一事物を以て他の一事物と比較する者なるが故に、比較といふ知識上の作用を要す。そこには多少の理屈もあるので、十分注意すべし。」と警告している。
ところで、子規が譬喩という時、直喩と暗喩を区別していない。彼の『俳諧大要』「俳人蕪村」には、蕪村が工夫した句法であるとして評価する直喩の作品が二十句ほどあり、「蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心の如き語を据うることを好めり」と書いている。子規がつまらないとけなしている他の俳人の譬喩の句は、すべて暗喩を使用したものである。
子規自身の譬喩の句は、高浜虚子選『子規句集』岩波文庫によれば、先に書いたように全2,306句中、わずかに十句あるにすぎず、すべて直喩句である。
「如」5句、「似」4句、「―くさい」1句 という内訳。
子規は「写生論」を西洋画の技法から俳句に転用したが、絵画における写生は、視覚やせいぜい触覚が中心の表現であり、聴覚、味覚、嗅覚などは直接には表現できない。子規の直喩句も視覚から得られた印象であり、絵に描けるほど鮮明である。
文芸における写生とは、言葉で可能なかぎり対象の実態を表現することである。直接に表す言葉が見つからない時には、対象から連想される言葉を当てて読者の解読に期待する。そこに直喩が生れる。ただ、独自性を尊重する短詩型の文芸にあって二番煎じでない直喩構造を考えつくことは容易ではない。