天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

Dr.Ryuの場合(5/8)

思潮社より

C女との生活
X女に失恋した後、その傷を埋めるかのように、昭和四十四年四月、次の女性C女と運命的な出逢いをする。岡井より二十歳年少であった。信州松本市の出身らしいが、詳しい経歴は、この場合も不明。
  一箇の運命としてあらはれし新樹を避くる手段ありしや
                    『天河庭園集』
  ちかぢかと抱きよせて截るしなやかな幹とわれとの世代差あはれ
岡井はB女との家庭を捨て、勤務先の北里研究所附属病院を退職して、九州へC女を伴って出奔することになる。九州では福岡県立遠賀病院に職を得て四年ほど過ごすが、歌壇や歌人との交渉を断ち切り、短歌も作らなかった。もっぱら斎藤茂吉の研究に専念した。
岡井とC女は、昭和四十九年五月に九州を去って、郷里愛知県の豊橋市に移住する。今度の勤務先は、国立豊橋病院である。官舎生活であった。この時点から、歌壇へ復帰し再び短歌の制作が始まる。九州での生活を詠んだと思われる次のような歌がある。家族詠というより性愛の歌。
  夜半(よは)ふりて朝消(け)ぬ雪のあはれさの唇(くち)にはさめば
  うすしその耳              『鵞卵亭』
C女との生活は、昭和四十五年から平成三年まで続く。昭和五十年に長男、五十三年に次男、五十六年には長女が生まれた。この子供たちは庶子であり、世間には隠しておかねばならなかった。子供の歌を作るようになるのは、A女と正式に離婚が成立して以降で、『αの星』や『五重奏のヴィオラ』からである。ただ、よくよく読めば、例外はいくつもある。
  風道に紅顔童子立てりけり髪を率ゐて佇てりけるかも
                    『歳月の贈物』
この歌について岡井は、「冬の季節風の中に立つてゐる一歳位の男の児である。」と註しているが、長男のことと思われる。
  ひる過ぎの動物園に率(ゐ)たりける家族(うから)とわれと
  いづれかなしき        『マニエリスムの旅』
仙台の動物園へ行ったときのことらしい。
  あぢさゐに大かたつむりみどりごにはじめての歯のあはきよろこび
                    『禁忌と好色』
これは長女を詠んだ歌。この頃やっとC女と正式に結婚した。家族は、豊橋市向草間町に新築した家に移り住んだ。昭和六十二年に、国立豊橋病院側から他の病院などへの転職の話が出たり、京都精華大の学長から教授の誘いがあったりして、自身の行末を考えることになる。岡井隆五十九歳。秋には、NHK学園海外研修の旅でC女を伴って中国へ行った。子供たちの世話をC女の母に頼んで。
  八方に礼を通して義母をよぶその手つづきのなつかしきかな
                   『中国の世紀末』
  はなやげるだけ若やいで女(ひと)ありきわが晩年にあはれ雪降る
「女(ひと)」とはC女のこと。今後の職業に関して、岡井は医者をやめる決心をする。翌年に病院を退職、昭和六十四年から京都精華大に勤め始めた。