天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

自然への挽歌(8/9)

環境破壊  
 昭和二十年以前の近代短歌においては、自然詠が割に多かった。それは、わが国に自然が豊富であり、かつアララギを中心とする客観写生が推奨されたことが要因であろう。
 農林業に携わっている人のように自然を生活のかてにしている人達は、山林を削って自動車道路をつくることには、便利になるので賛成する。自然と共に生活することの厳しさが身に染みているからである。もちろんその場合でも、山野や海浜の資源を破壊するような他事業による開発には断固反対する。そこで鉱山開発、ダム建設といった大規模環境変化に関わる自然詠が無いか調べてみた。二例を以下に紹介する。


1. 足尾鉱毒事件(明治三0年)
 栃木県足尾銅山から鉱毒が流出し、一八八0年代後半から渡良瀬川沿岸農地が汚染された公害事件である。代議士・田中正造は時の議会に訴えたが聞き入れられず、一八九七年以来、たびたび農民が大挙上京して抗議行動をおこし、警官隊とも衝突した。ついに田中正造は馬車ででかける明治天皇に直訴した。失敗に終わったが世論が沸騰したため、政府は一九0二年に鉱毒調査会を設置し、治水問題として解決を図ろうとした。
 石川啄木は盛岡中学四年生の一月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。彼が主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で啄木が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだという。鉱毒事件をもっとも早い時期に短歌に詠んだことになる。その中で次の一首は、歌碑として田中正造の墓前に立っている。
 夕川に葦は枯れたり血にまどう民の叫びのなど悲しきや


2.小河内ダム建設反対(昭和六年)
 北原白秋は故郷を追われる村人達に同情し、「山河哀傷吟」、「山河愛惜吟」、「厳冬一夜吟」の「小河内三部唱」を詠んだ。
「山河哀傷吟」の詞書に心情が吐露されているので、一部を次に引用する。
 「・・・この鶴の湯、原は懸崖にあり、極めて寒村にして未だにラムプを点じ、殆ど食料の採るべきものなし。ただ魚に山魚あり、清楚愛すべし。此の小河内の地たる、最近伝ふるに、今や全村をあげて水底四百尺下に入没せむとし、廃郷分散の運命にあり、蓋し東京府の大貯水池として予定せらるといふ。まことに山河の滅びんとする、その生色を奪はれ居処を失ふもの、必ずしも魚貝・禽獣・草木のみにあらず、かの蒼天にして父祖の声咳に背き、産土にして聚落と絶つ。・・・」
その「山河哀傷吟」から二首、
 山川も常にあらぬか甚し草木おしなべて人のほろぼす
 物のほろび早や感ずらし夜のくだち狢(むじな)がどちも声をこそのめ
また「山河愛惜吟」から二首を。
 堰(せき)の戸は未だ堰きあへね山水の瀬々のたぎちもいつか絶えなむ
 御祖(みおや)神(がみ)助けたぶべし産土(うぶすな)の恋(こほ)し山河(やまかは)ぞ

 今は潰(つひ)えむ
現代の山河の歌にも、環境汚染を詠んだ作品が現われている。
 人の捨てし塵うづたかき高千穂の山も遠くよりみれば霊峰
                       志垣澄幸
 油まみれの海鵜なぎさによろめけば神神の声かなしみに満つ
                       竹山 広
 神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す 
                       大島史洋

 

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足尾鉱山