天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (1/13)

飯田龍太

明治以降の俳句史における飯田龍太の位置づけについて論じてみたい。作品から読み取れる龍太の俳句に対する姿勢・思いを要約すると、次のようになる。行過ぎた写実主義への批判と抒情性の復活さらに開拓、五七五そのままの定型に縛られない柔軟な構造の導入、また一句に一季語のみ許されるといった頑固な教えに対するアンチテーゼとしての季重なりの多用、禁忌であった観念句への挑戦 などである。つまり、近代俳句の教えである客観写生、季重なり禁止、ごとく俳句制約、観念句禁止、叙情排除、厳密な切れ などに対する反措定としての作品を提示し、戦後現代俳句の魁になった。そこで用いた龍太の特徴ある技法として、擬人法、自在な句構造と切れ、季語の自在(季重なり)、喩法特に直喩の多用 などがある。これらの方法によって彼の詠む山河は、自然のままに生動したのである。以下、具体的に解明していこう。

正岡子規から始まる近代俳句の問題点の一つとして、行過ぎた客観写生がある。龍太自身は、昭和三十一年六月発行の河出書房『現代俳句講座』第一巻において、次のように述べている。
正岡子規が俳句革新を唱え、その方途として芭蕉よりもむしろ蕪村を称賛しながら、こうした抒情性を重視することなく、もっぱらその絵画的な写実性、客観性をとり上げて近代俳句の出発点としたことは、一面、従来の月並俳句を断ち、和歌的な主情を排することによって俳句独自の造型力を培う上に多くの貢献をなしたことは事実であるが、反面また、詩性の涸渇した写生の瑣末主義に陥らしめた原因となったことも否定できない。」
龍太が批判した写生の瑣末主義の例として、四Sのひとり高野素十の次の作がある。
  甘草の芽のとびとびのひとならび
写生力をつけるために、画帳を携えて吟行に行き、対象を描き写す俳人が大勢出現した。