天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (8/13)

角川書店より

次に近代俳句の固定観念に対する龍太の柔軟な技法をいくつか取り上げる。
先ず季重なり。龍太の俳句に季重なりが多いことについては、三橋敏雄の指摘があり、
15%にもなるという。ただし、これは「俳句研究」昭和43年6月号での発言だから、
龍太の第三句集までの作品の範囲であろうが、その後に続く句集においてもたしかに
季重なりが目立つ。
 三橋の解釈を要約すると「龍太俳句の季重なりは、推移する季節の微妙な気息に触れて、
解すべからず、味わうべしの妙境を、読者に与えてくれる。ここに飯田龍太の抱懐する自
然観に関る新しい時間造型の試みの成果を見出す。時間造型とは、時間の経過を目に見え
るように言いとめる趣である。」
俳句を作る上の約束では、「季重なり」を避けることになっているが、郷土に住む龍太の
日常実感として、ダイナミックな季節の移り変りを詠み止めるには、「季重なり」はごく
自然な要請であったと思われる。歳時記に載っている言葉を一句の中に複数使用したから
といって、それぞれが季を主張しているわけでなく、主導の季語だけが生きていれば、
季重なり」と考える必要はないであろう。龍太には、実態にそぐわない文芸上の約束に
縛られない柔軟さがあった。
龍太自身は季語について、先人の貴重な遺産であるから、それなりの敬意を払って使用
すべきもの、大切な上にも大切にして、遺産に一段と輝きを加えるべきである、と述べて
いる(昭和40年3月21日 毎日新聞)。
  夏川のみどりはしりて林檎の国       『百戸の谿』
夏川もみどりも単独では夏の季語であるが、この句では、夏川のみどりを一つの季語と考えてよい。
林檎は秋の季語だが、ここは林檎の産地という意味なので、季語の働きはない。
  うぐひすに滝音笑ひつつ暮るる         『童眸』
うぐひは春、滝は夏の季語だが、「飯田龍太全集」の季題別全句集の分類では、夏の部に
入れてある。滝音が主人公のためである。
  捨てられし仔猫に小春日和かな        『春の道』
仔猫は春、小春日和は冬の季語だが、結句の詠嘆に重点があるので冬の句。
  ひえびえと吉野葛餅雉子鳴く         『春の道』
葛餅は夏の季語だが、情景は、よく冷えた吉野葛餅を食べていると雉子が啼いた、とい
うことで、雉子を主体の春と解釈する。
  八月も果ての没日の遍路道          『今昔』
季語としての遍路道は、お遍路さんが歩いている春の道になるが、この句の情景では、
お遍路さんの姿は必要ない。ただその道に八月終りの夕陽が見えている。季節は当然秋で
ある。
  朱欒叩けば春潮の音すなり         『山の影』
朱欒は冬の季語であるが、「飯田龍太全集」の季題別全句集の分類では、春の部に入れ
てある。つまり春潮の季感を重視している。
  燕高し大原もいま秋ならむ          『遅速』
「燕」と来れば春と単純に考えてはならない。燕は春先に来て秋に南に帰る。「燕高し」
という措辞は、帰り支度をしている状況を表している。季節が矛盾しているわけでなく、
実に自然な景色なのである。