天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (12/13)

『蛇笏・龍太の山河』山日ライブラリー

 龍太の父蛇笏の作品と比較してみるのも興味深い。
  紺絣春月重く出でしかな           龍太『百戸の谿』
  鴉片窟(あへんくつ)春月ひくくとどまれり  蛇笏『旅ゆく諷詠』
共通なのは、春月であるが、蛇笏の写実に対して、龍太の強い抒情性が特徴である。
  いきいきと三月生る雲の奥   龍太『百戸の谿』(昭和28年)
  いきいきと細目かがやく雛かな  蛇笏『山盧集』(大正14年)
両者とも「いきいきと」という主観表現を使っている。蛇笏の句は、対象に即しての写
実だが、龍太の方は擬人法で幻想的。
  旱天の冷えにのけぞる駒ケ岳          龍太『麓の人』
  岬(さき)の濤(なみ)のけぞる宙(そら)の凍てにけり 蛇笏『雪峡』
「のけぞる」を擬人表現にしている点は両者に共通だが、季節は龍太が夏、蛇笏が冬と正反対。ただ、
厳しい表現のため、季節感までもが似ている。
  死顔に眼鏡ありけり法師蝉   龍太『山の影』(昭和56年)
  なきがらや秋風かよふ鼻の穴  蛇笏『山盧集』(昭和2年)
龍太の句は法師蝉が対象のせいもあって、表現にはユーモアがある。対して、蛇笏の句は冷徹・
非情な表現の裏に慟哭がある。
  鶏毮るべく冬川に出でにけり     龍太『百戸の谿』(昭和24年)
  鼈(すつぽん)をくびきる夏のうす刃かな  蛇笏『霊芝』(昭和11年)
どちらも食料にするために動物を殺す場面を詠んでいるが、龍太の抒情性に対して、
蛇笏の冷徹な写実性が際立つ。


[追伸]蛇笏・龍太父子の俳句人生の響きあいについては、改めて後日論じてみたい。