天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

道づくし(8/11)

新古今和歌集(岩波文庫)

また、十年を区切る齢を重ねるときに、〜路という言い方がある。三十路(みそぢ)、四十路(よそぢ) など。藤原定家がよく使った。

 むかひ行く六十ぢの坂の近ければあはれも雪も身に積りつつ
               藤原定家
 かにかくに悲しみ白し三十路をば越えて早くも老いにけらしな
              与謝野鉄幹『樹之葉』

その定義から想像されるように、道は神仏の教えを詠む歌にも現れる。神祇歌であり釈教歌である。勅撰集では後拾遺集以後部立の一つとなった。新古今集から例を引く。

 春日野のおどろの道のうもれみづ未だに神 のしるしあらはせ
                皇太后宮大夫俊成
 わがたのむ七のやしろの木綿襷きかけても六の道にかえすな
                前大僧正慈圓
 鷲の山今日聞く法の道ならでかへらぬ宿に行く人ぞなき
                  前大僧正慈圓
 しるべある時にだに行け極樂の道にまどへる世の中の人
                   読人知らず

西行にも釈教歌『法華経二十八品歌』がある。

 さまざまに木曽のかけ路をつたひ入りておくを知りつつ帰る山人

この歌は、さまざまな苦労を重ね木曽の険しい桟道を這い登り、崖に伝わり山の奥まで知り尽くし生業を立てている山人は、仏の悟り、如来の悟り、自然の悟りを体得しているとし、その姿を詠んでいるという。