天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

甲斐の谺(1/13)

飯田蛇笏

俳句結社「雲母」の運営(選句、鑑賞)を二代にわたって担当した飯田蛇笏・龍太父子の生涯と作品について、どのような関係にあったかを見てゆきたい。同じ家に住み生活を共にすると俳句にどのような影響が出るのか、類似性、独自性につき技法、季語の詠み方、鑑賞の特徴といった観点から吟味する。甲斐に住んだ親子の作品の響き合いを見たい。
経歴の類似性
飯田蛇笏(本名=飯田武治)は、明治十八年四月二十六日、山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市)の大地主で旧家の長男として生まれた。旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、明治三十八年、早稲田大学英文科に入学する。早稲田大学では高田蝶衣らの早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水らとも親交を深め句作や詩作をし、小説も手がけ『文庫』『新声』などに発表する。しかし、明治四十二年には家庭事情から早大を中退し帰郷する。その後は稼業の農業や養蚕に従事。
一方、飯田龍太大正九年七月十日に、蛇笏の四男として生れた。昭和二年に境川尋常小、昭和八年には旧制甲府中学へ入学し、昭和十五年には國學院大學文学部国文科へ進む。折口信夫を尊敬し、句作に親しむ。右肺浸潤のため一時休学、右肋骨にカリエスが発症したため療養生活を送り、昭和二十二年に大学を卒業した。その間、五人兄弟のうち次男が病死し、長男・三男が戦死したため、四男の龍太が家督を継ぐことになった。そればかりか、長兄の奥さんを妻に迎えることになった。封建制度の色濃く残る田舎にあっては、しごく当たり前の成行であった。蛇笏としては、家督と結社運営は、長男・聡一郎(俳号=鵬生)に任せようと思っていたはずである。
山梨県では江戸期以来の宗匠が俳壇を形成し影響力を残しており、蛇笏も幼少期から旧来の月並俳句に親しむ。早稲田大学時代から高浜虚子の主宰する『ほとゝぎす』にも投句した。帰郷後、松根東洋城の『国民新聞』への投句を始める。大正二年には虚子の俳壇復帰と共に『ほとゝぎす』への投句を復活する。大正三年、愛知県幡豆郡家武町(現西尾市)で発刊された俳誌『キラゝ』の選者を担当。大正六年、同誌の主宰者となり、誌名を『キラゝ』から『雲母(うんも)』に改める。大正十四年には発行所を甲府市に移した。故郷・境川村で俳句創作活動を続け、昭和三十七年没。享年七十七。忌日の十月三日を「蛇笏忌」(傍題に「山廬忌」)という。
龍太は父・蛇笏と生活を共にしつつ、俳句修業は『雲母』上で蛇笏の選を受けたり句会を通して実践した。郷土山梨での文芸活動にも携わり、やまなし文学賞山梨県立文学館の創設、山梨日日新聞毎日新聞の読者俳壇欄の選者なども務めた。郷里にあっても作家・井伏鱒二と長い交流があった。平成十九年二月二十五日、肺炎のため甲府市内の病院で死去、享年八十六であった。